例えば、お葬式の式場の入り口の左右に矢来が組んであって、高張り提灯や御霊燈が一対拵えてあり、その下に庭飾り。そこにはしばしばツクバイや水車や滝に見立てた岩などが飾ってあるが、それらは皆「水」と縁が深い。水は、固体(氷)・液体(水)・気体(水蒸気)と常に変化していて、とどまることがない。
つまり、仏縁を得てこのお葬式の会場に入っていく時には、心して命の本質を見て欲しい、ということか。極端に言えば、会場から無事に出てこれる命の保障は誰にもないのである。老若男女を問わず、いつどこで心臓が停まるとも限らないわけだ。
我々は、明日も生きていることを前提に今日を生きている。しかし命の本質はそれを保障していない。そのことを暗示しているのがお葬式の庭飾りなのかもしれない。
「ウッ・・・!」と今こうして原稿を書いている私の心臓が停まってもおかしくないとは知りながら、どうしてこんなに怠け者なのだろう。我ながら情けない。仏教はお葬式の現場を通して命の大切さ、その重みを教えてくれているのに・・・。
「ブルータスお前もか・・・」と空欄に入れなければならない歴史の問題に、「グヘェ!」と回答した中学生が大好きだ。死ぬのは理屈じゃない。
これから愛知へ出張だ。
最後に、徒然拾撰集から一句。
「語るなと 人に語れば その人が また語るなと 語る世の中」
・・・生きてることは楽しいですね。