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2004年12月08日
無宗教の音楽葬で、司会を担当させていただいた。 いつも感じることだが、司式者がいない無宗教の葬儀は、良くも悪くも司会者の実力の全てが儀式そのものに大きく影響する。 その口から発せられる言葉は、悲しみの中にも和やかさ、落ち着き、その場の空気や雰囲気のすべてを作ると言っても過言ではない。 葬儀におけるお客様の満足度は、式場全体の構成や、花、祭壇、スタッフの態度・・・等、「見た目の部分」ではもちろんのこと、「耳に聴こえる部分」の満足もお客様は求めはじめているようだ。 葬儀の式場では、そこにいるお客様の「五感」で、儀式空間の全てを感じているのだ。
さて今回も、「FUNET」を使って司会の構成を作った。 ようやく私も「FUNET」システムの扱いに慣れてきたようだ。 通夜と葬儀・告別式の2日間、私は毎回違うナレーションを作成する。 通夜と告別式は文字通りTPOが違うからだ。 またプロとして2日間とも同じ原稿を読むことは出来ない・・・と思っている。
私は下記のように、通夜は季節の部分を全面的に出すことが多い。 [通夜ナレの実例抜粋] 落ち葉踏む音に、冬の訪れを知る季節となりました。 吐き出す息はいつの間にか白く、色を失った風景に切なさが込み上げます。 冬ざれのすべてが、命の儚さを伝えているかのようです・・・。 (FUNETプロローグ文章より)
そして翌日の告別式のナレーションを作るにあたり、通夜開式の前後から式全体で、家族と故人との関係性をしっかりと見て取り、告別式は家族と故人との関係や、FUNETから人柄のカテゴリーを使う。 [葬儀ナレの実例抜粋] 太く、強く、家族の絆(きずな)を結び、前向きで豊かな人生を育んできました。 いつも故人を中心に家族が繋がっていました。 在りし日の思い出は、ある時は心の支えとなり、ある時は励みとなるでしょう・・・。 (FUNETメイン文章より)
担当者さんが司会の私に「みんなを泣かせてくださいね」と言うことがあるが、お客様をわざと泣かせるようなコメントを言うなどは、こちら側の驕り高ぶりであると、私は思う。 遺族や会葬者の悲しみは、その方自身の真実の表現であり、その方の中から自然と湧き出るものであり、その悲しみの浅い深いは、周りがどうのこうのと計り知れるものではない!
葬儀における悲しみの涙というものは、故人がお亡くなりになってはじめて出会う私たち葬儀スタッフが、小細工できるようなそんな軽いものでは無いということだ。 ただ、ナレーションを作るために短い時間ながら遺族と向き合い、お話をさせて戴く中で、司会者の私なりに、故人の人生を真摯に知ろうと努力する中で見えてくものは多い。 それをそのまま文章として作り上げたとき、多くの遺族は涙してくれる。 悲しみの涙は、隠すものでも我慢するものでも無い。
「遺族が泣きたいときに思う存分泣ける」そういう環境を作ってあげることこそ、私たち葬儀スタッフに望まれることではないだろうか。 そして司会やナレーションでそのお手伝いが出来れば、私は心底うれしい。 『お宅のナレーションを聞いてると、いつも他の司会の会社とはどこか違うのですよね・・・ 何かコツがあるのですか?』 葬儀社の担当者に良く聞かれるが、弊社が普通の感覚でやっているだけだろう。 コツなど何処にもない。
今遺族の方々は、普通の人こそ、その人生に光を当てて欲しいと思っているようだ。 何かを成したとかじゃなく、名声を馳せたとかじゃなく、ただ子供を育て、家族を愛して、誠実に人生を全うすることは、とても素晴らしいことだ。 葬儀のナレーションは、美辞麗句を使ってオーバーなことを言う必要はないのだ。 「FUNET」を使えばそれが容易に叶う。
手前味噌だが、使えば使うほど、このシステムの素晴らしさに驚いている。
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投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2004年12月08日 23:02
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