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| わたしの兄(関谷 京子) »
2005年02月09日
春には桜の花が見事なこの病院は、中庭の散歩道にベンチがあり、 よく買い物帰りにふらりと寄ったものだ。 教会の窓越しにオルガンの音が聞こえたりするのがとても気に入っている。 今日の目的は検査結果を聞くこと。 予約は入れてあるが、病院というのはとにかく時間がかかるものだ。 庭が見える椅子にすわり、しばし病院の日常の風景を眺めた。
有難いことに病気に縁の無かった私は、前回の入院は次男を出産した13年前だ。 出産のための入院準備は楽しかった。 二人目だったこともあり、手際よく荷物を作った記憶がある。 私はもちろん実家の父も母も若かったし、 長男は主人と姑に預けて早めに実家に戻りしばし娘に戻った。 あの時は何かと融通がきいた。 しかし今回の入院はそんなわけにはいかない。 夫や子供たちの協力無しではできないことだ。 毎日の生活のこと、炊事、洗濯、掃除、学校etc. すでに3月に決っているいくつかの仕事のことも頭からは離れない。
13年前と違い、今のITの情報にはすごいものがある。 病名を検索してみれば私と同じ病気の人が、自分の病院選びから、 手術前後と入院の経過、退院後、入院のための準備物まで詳細に記録が載っていて、 私もそれをプリントアウトして参考にした。 便利な世の中になったものだ。 パジャマの上に着るガウンなど今は持っていかない。 寒い季節はフリースが一番。 水差しでは無くペットボトルに使い捨てストローをつけて飲む。 音楽はコンパクトなMDで聞く。 そしてなんと言っても携帯電話。 待合室の電話コーナーではノートパソコンで仕事のメールチェック。 13年前の入院では、テレホンカードをたくさん持って、 自宅へ電話をしたが、今は何の不便もない。 元気な姿を遠くの人と写メールで交換もできる。
病院には様々な風景がある。 喜びと悲しみが交差する「真実の世界」 婦人科外来だけでも、これから赤ちゃんが生まれる人、 不妊治療をする人、病気治療をする人様々・・・。 産婦人科の外来で13年前と大きく違うことは、 大きなお腹の奥さんに、うれしそうに付き添う 若いご主人がすごく多いということ。 ご主人に寄り添う幸せそうな奥さんを見ていると、 こちらまでやさしい気持ちになる。 又、私と同じ位の年齢の人で、4人目の出産という人もいる。 「素晴らしい!」 多くの人々が、それぞれの様々な人生を背負いながら静かにそこにたたずむ。
病院スタッフの対応は、13年前とどう違うのか・・・。 13年前には自分のことで必死ということもありあまりよく覚えていない。 只ひとつ覚えているのは、生まれたての息子のおむつを換えていて、 ベッドの上で思いっきりおしっこをされた時、 当直の看護婦さんに嫌味を言われたこと。 とても冷たい言い方だった。 人はよくしてもらったことは意外と忘れるが、 心に傷をつけられたことは何年たってもはっきりと覚えているものだ。
病気の完治に向けて努力している患者さんの傍らでは、 自らの死を受け入れホスピスでその人生の最期を過ごす患者さんもいる。 病気の完治に向けて頑張るスタッフの傍らでは、 死を待つ人々を支えるスタッフ達もいる。 命が息づく病院という場所には、喜びと希望、 そしてあきらめと悲しみが混在する。 そこにあるのは葬儀の現場とは又違う、厳しい現実の日常風景。
この病院では、どなたにでも分け隔ての無い、 ホスピタリティあふれる看護がなされていてとても気持ちがいい。 患者さんばかりではなく家族へも心ある対応がされている。 万が一患者さんがお亡くなりになった時にご遺族となられた方々へも、 さらに深い尊重の態度で接していると推察する。 その後、そのご遺族を引き継ぐのは、私たち葬儀スタッフである。 私たちは、それからの悲しみの数日間を、病院スタッフ以上の 手厚い看護にもまさる接遇応対で接することを心がけなくてはいけない。 悲しみの方々に葬儀の場所で、それ以外のことで 悲しませるようなことをしてはいけないのだ。 病院スタッフと葬儀スタッフ、 故人の死去からその後の時間経過の中での両者の接遇に、 大きな差が生じることの無いように、 私たちは常に努力する必要があるのではないだろうか。
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投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年02月09日 13:26
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