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2005年04月06日

我、青春の街「江古田」(加藤直美)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

ある大手葬儀社の司会研修会があった。
2ヶ月で8回開催という密度の濃いものだ。



井手講師のサポートで、私が大学時代を過ごした懐かしい街に行った。
何年振りにこの駅に降りただろう・・・。
何よりも楽しかった青春時代の甘酸っぱい思い出が蘇える。
あの頃はサーファールックが流行っていて、パンタロン風のGパン、
ビーチサンダルにボートハウスのトレーナー、
ファラフォーセットメジャース風のレイヤードカットで、江古田の街を闊歩していた。
私の専門はクラシック音楽であったが、サークルはミュージカル研究会。
毎日のように本館41番教室で練習をした。
発声練習、バレー、セリフの稽古・・・。
世の中がミュージカルブームに入る頃だった。
新大久保の小劇場で東京キッドブラザースがミュージカルを始めた頃だ。
ここにも何回通っただろう・・・。
あの狭い息苦しい空間で、
役者の汗や唾が飛んでくるような場所で見たミュージカルは今でも忘れない。

江古田は、初恋と失恋の街でもあった。
茨城県から出て来た私には、東京の男の子はみんな格好良く見えた。
でもその中でも飛び切り格好良いサークルの先輩に恋をした。
クラシックしか知らなかった私にジャズやポピュラーの楽しさを教えてくれた。
初めてお化粧をしたのもこの頃だ。
渡すことのないポエムやラブレターもたくさん書いた。
夢見る夢子さんのように、恋に恋していた頃かも知れない。
でも、決定的な失恋で終ったその初恋。
「おまえはかわいい妹だよ」と言われ続けて・・・。

その彼は、29歳の秋、白血病で天に召された。
私は翌年に主人との結婚が決っていた。
病気であることは知っていた。
私に「会いたい」と言っていたことも知っていた。
でも私は「フラレタ男に会いになんか行かない」と意地を張っていた。
まさか亡くなってしまうなんて思いもよらなかったから・・・。
葬儀では泣けなかった。
とても悲しいのに涙が出なかった。
そしてその悲しみをそのまま心の深い所にしまい込んだ。
涙にも蓋をした。
私はそのまま何年もその悲しみを忘れる努力をした。
そして何年も仲直りしていない喧嘩のような心のつかえが私を苦しませた。

2年前に制作した葬送BGMの第1弾には、その彼への鎮魂歌が納められている。
あれから15年も立っていたのに涙が止まらなかった。
その時、作曲しながら泣きながら、
私は隠されたその悲しみを表現し、越して行ったのかも知れない。
きっとそれが私のグリーフケア、その悲嘆からの立ち直りだったと思う。

葬儀の式場でも時々、隠された悲しみに出会う。
泣いていないから悲しくないのではない。
悲しすぎて涙が出ないこともあるのだ。
悲しすぎてテンションがあがることもある。
私はどちらかといえばそうだった。
我慢した悲しみはどこへ行くのだろう。
そして耐えたその涙はいつ流されるのだろう。
悲しみを表現出来るということは、人にとってすごく大切なことなのだ。
悲しい時に思いきり泣くということは、人にとってすごく健康的な行為なのだ。
私は葬儀の現場でも、
人それぞれの悲しみの表現を支えてあげたいと、いつも思っている。


〈井手の割り込み〉
切ない話の後は、楽しい雰囲気でパアーッといきましようか。
今日はナント、20年ほど前の加藤のCDデビューのジャケットから。
(その昔、歌のお姉さんだったのです、お願い信じてください!)



ご覧いただければお分かりかとは思いますが、
松田聖子風の髪型が、彼女の青春時代を物語りますね。
今ではこんなに厳しい加藤先生にも、かわいらしい時代があったとさ・・・。(エコー)
あー、その後の人生で彼女はどんな闇を見たのでしょう。

とまあ冗談はさておき、このCDの中には雪村いづみさんからのコメントが
加藤に寄せられているのですが、
「日本の歌を唄い続けて欲しい、パソコン世代の若者にもしっかりと伝えて欲しい・・・」
云々とあり、20年前に既にパソコン時代を見ていた
雪村いづみさんの発言にちょっとビックリです。
(因みに加藤は日本の歌をカラオケで歌い続けていますが・・・笑)

加藤は今回の新作で、葬送BGMを30曲作りましたが、
(トップページから新作BGMがナレと合わせて視聴出来ます)
夢は「自分の歌で悲しみの人たちを癒したい」
ということですから、そのうち考えなければなりません。
次は葬送BGMだけでなく、何とか唄わせてやりたいと思っているのですが、
何せ採算が合わないのですよ、困ったものです。

関谷と加藤のコンビで何か出来るかもしれません。
その内ね・・・。
期待しないでね。
「つんく」なのにごめんね。

〈もういっちょオマケ〉
東京キッドブラザーズは、私もよく通いました。(いやあ、懐かしい)
柴田恭兵さんに憧れましたが、自分がデビューしてからは
草野球の試合で何度も対戦しています。
もっとも私の家内は、恭兵さんのチームを応援していましたが・・・(何でや?)
試合後に、当時は漫画の「あぶさん」に出てくるマスターの店で、
両チーム揃ってワイワイやるのですが、これがまた実に楽しい時間でした。

神宮は草野球のメッカで、その頃私は芸能界の野球リーグで
年に35試合ほどこなしていました。
他に商店街の早起き野球チームで年に20試合。
所属していた劇団のチームで20試合。
3種類のユニフォームで、年間75試合も野球漬けの日々だったのです。
近所の人は、私をノンプロの選手と思っていた人もいました。
だって毎日ユニフォームが洗濯してあるものですから。

楽しいエピソードが一杯ありますので、いずれ紹介します。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年04月06日 17:53

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