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2005年07月24日
(今日はしんみりいきまっせ)
以前にもこのエッセイ欄で紹介したが、私には年に一度だけ、 思い出の地“神戸”で会う約束をしている、今は倉敷に住む友人がいる。 彼女と私の間には深くて長い歴史がある。 それも、ただの旧友としての歴史というものではなく、 二人だけが共有した、特別な時間、二人だけにしか知り得ない、特別な出来事。 そして、若き日のそれぞれの想い、そして情熱・・・思い起こせばきりがない。 込み上げる思いを言葉で言い尽くすことなど、絶対に出来ないであろう。
20年以上前、別々の道を歩むことになってからの、 その間にも歴史は、まさに脈々と綴られていたことを、 数年前に再会を持って知ることになった。 まさに、人に歴史あり である。 降り積もる雪の、純白のような思いのままで、 友情がしんしんと降り続いていたことに、感動を覚えずにはいられない。
そしてまた、ここへきて色々なことで不思議な接点を持つようになったことは、 余りにも感慨深く、新たな歴史を紡ぎ始めた事を感じさせてくれた。 二人が今年会うのは、多分晩夏になるだろう。 あと1シーズン超せば、彼女の瞳に触れ、彼女と語り合える日が来る。 “そこには全てがある”そう感じさせてくれる人。 もしかしたら、恋人との逢瀬よりも、 私にとっては感動と喜びをもたらしてくれる一日なのだ。
こんな友人を得ることが出来たことは、奇跡に近いと想っている。 私には案外友人がいる。 しかし、遠くに離れていながら、 こんなにも愛情を感じる友は、何処を探してもいない。 学生時代の友人達さえ、 一人として今何を何処でしているのかさえ知らないほど、 私は人と連まないタイプであり、ある意味、不要ならば 過去を冷たく切り捨てる部分があるからだ。
しかし、生きている限り、歩き続ける限り、 私は、彼女だけは必要とするであろう。 そしてまた、私も必要とされる人間でありたい。 とつくづく思うのだ。
昨夜、その彼女と、久しぶりに電話で長い間話をした。 そして、あらためて、何にも代え難い友情を噛みしめながら眠りについた。
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投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年07月24日 00:28
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