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2005年10月19日

卒業式 (井手 一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

中央仏教学院の卒業式に出席した。
通信で仏教を学ぶ学校だが、入門過程・学習過程・専修過程と三つに別れ、
単なる仏教入門コースから僧侶養成コースまでと幅広く講座が開かれていて、
この日は併せて約570名が卒業した。
その会場となったのは、京都の本山に隣接する本願寺門法会館。
通信で学ぶ学校だけに、卒業生の年齢層も幅広く、
下は20歳から上は90歳のお婆ちゃんまでとは驚きだ。

 
(本堂で少しだけお勤めもしました)

せっかくだからと私は前泊で京都に入り、その日は三千院や寂光院を散策した。
天候にも恵まれ、気分転換にはもってこいだ。
ただ、寂光院の焼失には唖然・・・昔とは随分と風情が違って見えた。
平安の雅が失われたことが残念でならない。
しかも山門脇で、どうして秋田名物の「きりたんぽ」が売られているのか
理解に苦しむ。(買っている人を見たが意味不明人だ)
そして三千院の周囲を囲むように流れる、呂川と律川。
俗に「呂律が回らない」などと言うが、語源は声明の旋律「呂」と「律」に
端を発し、調子が狂って何を言っているのかわからないということだ。
仏教音楽、天台声明の発祥の地だけに、川にまでこんな名前が付いたのだろう。
紅葉のシーズンには早過ぎて、卒業式が一ヶ月遅かったらと悔やまれる。

 

今回私はスーツを持参せず、きわめてラフな格好である。
(根が不精だから荷物になるのを避けたのだ)
これが・・・大失敗である。
卒業式当日の周りを見れば、皆晴れやかな出で立ち。(馬子にも衣装)
まさか1人ずつ名前を読み上げ、学院長が卒業証書を手渡ししてくれるとは
思ってもいなかったので、その辺を散歩するような格好で受け取ってしまった。
普段築地の本願寺で行われていた勉強会には、
仕事の関係もあって必ずスーツで参加していたのに・・・。
「井手さんどうしたの?」と級友たちの目が笑っていた。
北畠学院長ごめんなさい。

 

式典で久し振りにお勤めをしたら、やはり足が痺れた。
まったくお話にならない。
そして卒業生代表で答辞を読まれた90歳のお婆ちゃん。
87歳の時に発願し、命があったら3年間学びたいと学院の門を叩いたそうだ。
爪をください、爪を・・・少しだけで良いですから。(煎じて飲みます)
この方は、資格取得とか目先の利に捉われたのではなく、
生きるということを、生きる喜びそのものを学ばれたのでしょうね。
ノーベル賞を束にしてあげたいくらいだけど、きっといらないって言うね。
資格を取って卒業というだけの通信教育もあるだろうが、
この学院は、宗教に関する様々な問題意識を投げかけて卒業だから面白い。

式典でどうしても気になったことがある。
敬称の使い方だ。
主催者側である学校の講師(僧侶)に敬称がついていた。
宗教団体とはこういうものだろうか、普通の会社では考えられない。
まあ、先生と生徒という関係だからいいのかなとも思うが・・・。
ただ学院長のお人柄だけは立派なものがあった。
いつも謙虚で真摯な態度には感服する。
お葬式の僧侶が皆こんな人物だったらどんなにいいだろう。

さて、このいい加減な私だって卒業までの3年間はそれなりに大変だった。
通信教育は、怠けようと思えばいくらでも自由が利く。
実際に私がいた専修過程の卒業者は、入学時の三分の一以下である。
専修過程は僧侶資格の取得が目標の一つであるから、入学時の意気込みは凄い。
思い出すのは、入学式のその日、築地の勉強会に所属する関東ブロックの
新入生が一堂に会して、それぞれ自己紹介と抱負を語った。
少し意地が悪くなるけど、それぞれのお話を伺っているだけで、
とても3年間は続かないだろうなと予想できる人が続出であった。
そして実際にそうなった。
仏教の教えに興味もないのに、資格取得だけを目的としていたり、
勉強するための環境が整っていなかったりと、その判断要素は様々だが、
僧侶になればバラ色の人生が開けるように思っている方はまず無理だ。
(一般に僧侶は楽なように思われているが、決してそんなことはございません)

私の入学動機は極めて異色だった。
そもそも仏教を、宗教団体のその内部から学んでみたかったのが動機である。
(よく入学させてくれたなあ)
そこにはどんな宗教的レトリックが隠されているのか、
また潜入?しなければ聞くことのできない僧侶の本音にも触れてみたかったし、
葬儀や葬儀社に対する僧侶たちの考え方にも興味を抱いていた。
お陰で最初の1年間ぐらいは、学友からの冷たい視線に晒された。
私は、真言宗であろうと、日蓮宗であろうと、曹洞宗であろうと、
(その他ほぼ全て)平気でお経本を持ち歩いて仕事をしている。
かなりの異端児に映っていたのは間違いない。
陰で、他宗派の回し者「スパイ井手」と言われていたのかもしれない。
今となってはいい思い出である。

卒業とは終わりではなく、始まりであるという。
これから始まるのだ、何が・・・。
この学院での体験や学んだ事を葬儀の現場で活かしたいとは思うが、
僧侶としてお葬式でお勤めをしたいとは思わない。
先の事をゆっくりと考えて、これから精進しなければ。

一応卒業証書を見せないと、学歴詐称になっても困るので。
(たわいもない学歴「些少」のことですが、ご覧あれ)

 

「精進料理」とか「精進する」の精進とは何?
辞書には、①仏道に励むこと、努力すること ②身を清め心を慎むこと
③肉食を避けること ④芸道などに励むこと・・・とある。
分かったようでよく分からない。
講師がヒントを下さった。
お肉屋さんに「精肉店」と看板があるでしょ、あれどういう意味?
精肉の「精」と精進の「精」は同じ字なのです。
そこで精肉を調べてみた。
精肉とは「新鮮で上等な肉」「精選した上等な食用肉」とある。
つまり「精進」とは、新鮮で、選りすぐって、上等な道を進むこと。
こういう学び方は、この学校で習った。
漠然と理解していたものが、大変分かりやすくなる。

新鮮で、選りすぐって、上等な道を進むように努力しよう。

<よく耳にする僧侶のつぶやき>
お経は、僧侶がどんなに心を込めて丁寧にあげたとしても、
亡き先祖が浮かばれるというような「魔法」「妖術」ではありません。
しかし、どうも世間一般の人は・・・誤解をしているようです。

檀家さんに寺院維持費・営繕費等の分担要求をしたら、
怒って檀家を離れたいと言う。
それはそれで致し方ないのだけれど、お墓も没収・返還というのが
契約上の筋なんだけど、クソ坊主と罵られる。
檀家である義務を果たすことなく、罵倒されるのは納得がいかないと・・・。
寺院は檀家の共同経営みたいなものだから、維持するためには、
お互いに支えあわないといけないのだが、自分の都合だけが優先して
自分のために利用しようとする人が多い・・・とか。

世間はいろいろですな。
(ね、僧侶も大変でしょ)

<井手の割り込み>
財団法人日本漢字能力検定協会が、「漢字変換”ミス”コンテスト」を発表。
面白いのをいくつか紹介しましょう。

「正解は、お金です」と打ったら「政界は、お金です」・・・素晴らしい。
パソコンは時として天才だ。
以下同様に続けます。
「500円でおやつ買わないと」 ⇒ 「500円で親使わないと」
「式早めにする」 ⇒ 「式は止めにする」
「その辺大変でしょ」 ⇒ 「その変態変でしょ」
「地区陸上大会」 ⇒ 「チクリ苦情大会」
「助走は出来るだけ早く」 ⇒ 「女装は出来るだけ早く」
「深くお詫び申し上げます」 ⇒ 「不覚お詫び申し上げます」
「愛という名の下に」 ⇒ 「愛というな野本に」
「イブは空いています」 ⇒ 「イブは相手います」
「ギャル文字表」 ⇒ 「ギャルも辞表」
「今日は見に来てくれてありがとう」 ⇒ 「今日はミニ着てくれてありがとう」

今日から1泊2日研修会です。
またご報告します。
南無阿弥陀仏。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年10月19日 16:31

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