んー困ったなあ。ポイントがいくつかあるし、どこから行きましょうか。
本来はどんな質問でも受け付けるわけではなく(知らないことが多いからね)、
司会や接客を中心とする実務中心に考えています。
宗教家に聞いた方が正確だろうし、私の<なんちゃって知識>でかえって
迷惑をお掛けしても申し訳ないですから。
でも今回は初めてのご質問ですし、特別に。
まず大乗仏教とは何か。
大乗仏教以前、仏教は「経」「律」「論」…合わせて三蔵…から成っていました。
経…釈迦の教えを集めたもの
律…仏教教団の生活の規則
論…経典学
しかし、やがて哲学的な議論に熱中し、次第に仏教が学問化していく中、
自らのみの救済を目的とする傾向が見られるようになりました。
そうするとその反動として、
釈迦が説いた本来の精神に立ち返ろうとする動きが起こります。
自らを、そして多くの人々を、迷いの此岸から悟りの彼岸へと渡す
大きな乗り物にたとえ、利他の精神を掲げて「大乗」と呼びました。
これが大乗仏教。
この歴史的な流れのもう一方は、上座部仏教とか伝統仏教とか部派仏教と
呼ばれていますが、大乗仏教側から見れば小乗仏教という言い方をします。
(小さい乗り物に例えていますね)
大乗仏教は、釈迦の本来の精神に立ち返ってはいるけれど、新しい仏教。
また万人の救済を目指した仏教。
中央アジアから中国へ広まった仏教。・・・だから北伝仏教・北方仏教とも言い、
小乗仏教は、南伝仏教・南方仏教とも言いますね。
次に般若心経とは、正式名称がいくつかあるのですが、
一般には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」ではないでしょうか。
(ぶっせつ・まか・はんにゃ・はらみた・しんぎょう)と読みます。
その成立起源も訳者も諸説あり、ここでは触れません。
仏説とは「仏が説いた」
摩訶とは「立派な、偉大な、大きな」
般若とは「仏の智恵」
波羅蜜多とは「梵語のパーラミータの音写で、彼岸や仏の国」
心経とは「大事な経典、中心的な経典」
ですから般若心経を直訳すれば、
<仏が説いた、偉大な、仏の智恵で、彼岸へ到達する、大事な経典>
本来「空」を説く経典なのですが、(空の話は難しいので触れません)
日本では、かつて神社で読誦されたり、
霊験あらたかな真言として受けとめられたり、
江戸時代には文字を読めない人々のために絵で表現したりと、
様々な経緯があり、またその厳選された文字数の少なさも人気の一つで、
現在では写経の際によく筆写される大変ポピュラーな経典ですね。
この経典の末文
「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」
(ぎゃてい・ぎゃてい・はらぎゃてい・はらそうぎゃてい・・・・・・・・)
をある高僧がNHKのテレビで解説されてましたが、
「行こう、行こう、さあ行こう、皆で行こう、仏の国へ・・・」
へえ、うまいこと言うもんだなあ・・・と思いました。
このことはつまり、般若心経が大乗経典であることを意味しています。
ところで、日本で流布している仏教・・・所謂葬式仏教は、
当然の事ながら全て大乗仏教と考えられます。
しかし日本の主な宗派と般若心経の関係は一様ではありません。
天台宗・真言宗・禅宗(曹洞宗・臨済宗・黄檗宗)が般若心経を使っています。
浄土真宗と日蓮宗は、それぞれ「浄土三部経」と「妙法蓮華経」が
根本経典ですので、般若心経を唱えることはないでしょう。
浄土宗では唱えることもあるようです。(葬儀以外で)
さて、ではご質問の、
<お葬式(浄土真宗)のとき、友人が写経した般若心経をお供えしたところ、
お寺様に下げてくださいと言われました。>ですが、
何の説明もなしにご友人の気持ちを否定するような行為はいただけません。
ましてや、同じ大乗仏教の経典です。
見識と包容力がある僧侶ならば、違った結果を導いていたのでは。
そう思うと少し残念なお話です。
葬儀の本来の意義を見失っている僧侶がいることは嘆かわしい。
儀礼や作法やお勤めが、お葬式の主役ではないでしょう。
送る側の気持ちを大切にしてもらいたいですね。
また真宗という一宗派の小さな殻に留まらず、
仏教という観点からも、布教のチャンスだったはず。(重ねて残念)
形骸化した葬式仏教の一端が垣間見えます。(でもこれが現実)
次に葬儀屋さんの白い手袋ですが、宗教的な意味はありません。
他業種にも見受けられるユニフォームの一種(パーツ)とも考えられますし、
案内や指示が分かりやすいという利点もあるでしょう。
業務内容によっては、遺体衛生保全や防疫効果を期待することもありますが、
通夜・葬儀の現場においては、昔から白い手袋をすることが多かったですね。
見ようによっては、昔からの習慣という捉え方も成り立ちます。
あくまでも私個人の意見ですので、ご参考にしてください。
ついでに、答えるのに長くなる質問は楽しいけどきついわ。 (井手一男)