この日のライブの時間、私がピアノを弾き始めると一人のご家族がやってきた。
私のところへ真っ直ぐに歩いて来ると、
「先生、この曲を弾いてください」と大きな楽譜を広げた。
見ると「アンドレギャニオンのピアノ曲集」だ。
その男性は何曲も入っているその高価な楽譜を大事そうに持っている。
世の中で「癒し」がブームになった数年前にとても流行った、
「めぐりあい」という曲を弾いてくれというのだ。
この曲は葬儀でもその頃、BGMといえば流れていた有名な曲である。
私はアレンジしたものを何回か弾いていたが、
この楽譜はオリジナルの譜面で、難しい展開がたくさんある。
いきなり楽譜を見せられて戸惑ったが、うろ覚えで弾いてみた。
するとこの男性はすごく喜んでいる。
そして他の曲を広げて「私も弾かせてもらっていいですか?」と言った。
私が「どうぞ」と椅子を譲ると、
おもむろにその場に靴を脱いで弾き始めた。
お世辞にも上手ではない。
しかし心がこもっている。
思わず力が入って強くなるところもあり、
私は周りの患者様に気をつかったが、最後までそっと見守った。
途中でその男性は、
「フラットにダブルフラットがつくと、トリプルフラットですか?」とか、
「ここのサウンドがCDと違うようだが、指は間違って弾いてはいませんか?」
などと私への質問を投げかけた。
まるでホスピス内の「即席ピアノ教室」だ。
弾き終わり、その方はポツポツと語り始めた。
「今、父が入院しています」もうあまり時間はありません。
私は家庭もあり別に住んでいるのでなかなか見舞うことが
できないのだけれども、このホスピスではピアノを弾いてくれると
入院中の父から聞いて、今日は楽譜持参でやって来ました。
これは父が好きな曲なんです。
小さい頃に父にはピアノを買ってもらいました。
母も月謝を出してくれて、随分習わせてもらった。
高校に入ってからピアノをやめてしまったが、
幼い頃から音楽がある家庭で育ったことを最近思い出し、
又ピアノに挑戦しているのです。楽譜もあまり読めないので、
CDを買って、1曲が弾けるようになるまで半年かかりました。
この曲は1年位かかりました。
それを今日は父に聞いて欲しくて、こうして来たんです。」
私が「お父様も病室で、聞いていらしたでしょうね」と言うと、
その方は恥ずかしいのか「いいんです。父は寝ています」とおしゃった。
するとそこへ車椅子に乗った一人の患者様が、
看護師さんに付き添われてやってきた。
「ああ、父です」その男性がおっしゃるので見ると、
あの「さざんかの宿」をリクエストしてくださった、
音楽が大好きなIさんだった。
「ああ、この方の息子さんだったのか・・・」
と私の中で、親子がつながった。
大人になってからは特にお父様と一緒に音楽を楽しんだことは無いとおっしゃるが、
確かにこの親子の中には、同じDNAが流れていると感じた。
お父様の感性がそのまま息子さんの感性につながって、
音楽を通して今、ここで、熱くコミュニケーションしている。
私は「せっかくですから、もう一度お父様に聞いてもらいませんか?」
とご提案した。
息子さんは「はい」とうれしそうに、
そのアンドレギャニオンの「めぐりあい」を弾きはじめた。
お父様の前で弾くのは初めてとのこと・・・。
つっかえながらも一生懸命に弾く姿は、
幼い頃に出た発表会の時の姿そのものだったかも知れない。
お父様はじっと目をつむり、息子さんのピアノに聞き入っている。
そして時折、何かを思い浮かべるような眼差しで、
しっかりと遠くを見ている。
息子さんの幼い頃の面影や共に生きた、
人生のひとこまひとこまを思い出していたのだろう。
親子の間に言葉はいらなかった。
一緒にそこにいた私は、暖かい何かが身体の中を通り過ぎるような感じがした。
あと、どれぐらい親子の時間が持てるのかは誰も分からない。
でも本当の意味での時間は、長さだけでは計れないと思った。
息子さんがお見舞いに来られない分は、
私が変わりに弾いて差し上げようと思っている。