検証する。
まずアナウンスの言葉だが、
「本日の…」「それではここで…」が多すぎる。
自分のためのイントロでしかない言葉を多用するのは技量の低さを物語る。
アナウンスの口調にも残念ながら癖がある。
葬儀口調のつもりなのだろうか?
一度基礎から学ぶべきだ。
抑揚が付き過ぎで変、正直申し上げて「おかしい」。
特に弔電なんか聞きづらいよ、ホントに。
葬儀社としての基本的知識。
大切な焼香案内のタイミングを知らないようだ。
お経のどの偈文から焼香案内するべきかの知識は必要なのに。
(宗旨は曹洞宗であった)
とてもそんなレベルではないし、興味もないようだが。
それから…
式場内に流れていたBGMは、市販の有名ミュージシャンのもの。
それをテープにダビングして流していた。(今時テープもすごいけど)
著作権を侵害して平気なのだろう。
自分の業務に対する意識レベルの低さが窺える。
ちょっと指摘したら、「何がいけないの?」というような、
キョトンとした顔をしていた。
変わった人だなあ、この人…という目で私を見ていた。
そして一番驚いたのが閉式のナレーション言葉。
20年位前のものだから、ここに書き記す。
御仏(みほとけ)の、御手(おんて)に抱かれ(いだかれ)、安らかなる国で、
永久(とこしえ)に憩(いこ)われますことお念じもうしあげ、ここに謹んで閉式…
会社のマニュアルに掲載されているのだろうか。
これも完全に著作権の侵害。(私が作ったものではないが)
昭和の香りがプンプンして懐かしかったが、
さすがに椅子から転げ落ちそうになったぜ。
彼は30前だろう。
このナレーションが流行っていた頃は、
ランドセルを背負って小学校にでも通っていたのでは。
物を知らないというのは、げに恐ろしきかな。
教えない会社もホラー。
因みに、この文言は私が想像するに、真宗の表白が素材になっている。
私たちの表白文の中に、類似のものが多いからね。
司会の話はこれくらいで、その他の問題点を記そう。
このエッセイを読んでくださっている方々は参考にして欲しい。
お別れの時、棺の蓋を作業のように一人で持ち上げ、
さらには棺の蓋を土足の式場の壁に掛けた。
(この時、私は切れました)
「土足の上に置くのか?」
土足のところに置いたもので蓋をするのか。
私は式場の外から自分でテーブルを運び入れ、その上に置くように指示。
作業を作業と見せないのがサービス業。
その発想がないなら、ただの運搬業務、倉庫の中での在庫整理業務と同じ。
お別れ用の生花をもぐ際、前隠し(蛇腹)を外すのは良いが、
終わったら元の形に戻しなさいよ、みっともないだろう。
無駄に式場の中を汚くする必要がどこにあるのだ。
また床に散った花びら等は、手で拾って綺麗にしろ。
これも私が式場で指示を出した。
もっと言うなら、祭壇左右の花のもぎ方はシンメトリーにするべき。
正直センスの無さにあきれる。
棺を動かすために、一旦脇へ移動させた経机は元の形に戻すこと。
さらには、燭台の灯火には意味がある。
一旦消しても、お別れの際には形を整えてもう一度灯すべき。
線香を点けるのが目的ぐらいにしか思ってないのかなあ。
こんな奴に、開式前のアナウンスで「合掌」なんて言われたくはない。
空々しいだろう、形だけで心がこもらないのは。
お位牌を、椅子の上に置くな。(アホ)
遺影写真を、椅子の上に置くな。(マヌケ)
お別れの最中に大きな声で案内するな。(トンマ)
位牌が形代・依代であると言う意味を、彼は知る由も無い。
遺影写真とスナップ写真の違いを、彼は知る由も無い。
お別れは祭りじゃない。
案内・誘導に大声はいらないだろう。
故人や遺族に対して、失礼だ。(場の空気、読めないかなあ)
全てにおいて、技量不足・知識不足。
こうして考えてみると、葬祭ディレクター技能審査というのは、
それなりに意義があるということが分かる。
私は怒ると顔に出る性質なので、親戚たちは皆分かっていたようだ。
「やっぱり、○○じゃ葬儀はだめねえ」
…決してそんなこともないのだが…だって丸投げだろうから。
実際の施行は××葬儀社なのに。
余談だが、2日間でストレスが溜まった私は、
叔父に献杯を依頼されたのを幸いに、10分ほどの法話をした。
せめて、バタバタせずに故人を偲ぶひと時が欲しかったからだ。
流れ作業で、画一的な業務、しかもそれが低レベルだと納得がいかない。
葬儀の原点。
故人の尊厳を守り、遺体を丁重に取り扱うこと。
遺族の悲しみを大切にすること。
頼むよホントに。
今日から私は長野・加藤は愛知・石川は島根・橘は出棺の司会だ。
それぞれに頑張ってもらいたい。
あっ、ついでに工場長と藤田もね。