肝臓から全身への転移があり、夫と見舞った時には意識混濁の状態だった。
モルヒネが投与されている。すでに話が出来ない状態だ。
こちらが話しかけることに頷くような、何か話したいような素振りを見せる。
まだ50代半ば・・・。まだまだ人生これからという時に・・・。
私たちも本当に悔しい。
サックスのミュージシャンとしての彼の人生は、それは密度の濃いものだった。
生涯独身だったが、ジャズミュージシャンとしては、
本当に恵まれた「昭和の時代」を音楽という伴侶と共に駆け抜けた。
お酒が大好きで、よく我が家の飲み会には顔を出してくれた。
飲むと少しだけクダを巻くのが玉にキズだったが、
それだけに面白い武勇伝もたくさんあるらしい。
夫は偶然に病室で出会った音楽仲間と、彼の色々な出来事を話していた。
病床の彼には聞こえるのか、時々唸るような声を上げる。
返事をしているような・・・「そんなことまで、こんな時に話すなよ・・・」
と言っているような・・・。
状態が悪くなってからは、お姉さんが付き添っている。
遠くから通っているらしいが、家族の愛を感じる。
末っ子だった彼は、兄姉の誰よりも先に、天国へ召されてしまう。
ご家族にとっても、それは辛いことだろう。
聖路加国際病院のホスピスは、一歩足を踏み込むだけで、
そのやさしくて暖かい環境が感じとれる。
患者様や家族が大切にされていると感じる。
全部が個室になっていて、彼の部屋では有線放送からジャズが流れていた。
明るい病室からは隅田川沿いのウォーターフロントが一望できる。
最高のロケーションだ。
日野原重明先生と偶然エレベーターでご一緒した。
小さくてやさしそうなおじいちゃんだった。
この身体から物凄いパワーを出しているなあ・・・と、しばし見とれてしまった。
病室には、代わるがわる友人達がやってくる。
こんなにも友達が多かったのか・・・とお姉さんは感激していた。
そして友人たちは、彼の耳元で「頑張れ」「頑張れ」と言っていた。
私たちだって彼には、1分、1秒長く生きて欲しい。
奇跡が起こるのならばもう一度、楽しく話をしたい。
大声で笑いながらお酒を飲みたい・・・。
しかし・・・もうここまで来て、どうやって頑張れというのだろうか・・・。
「ここまで、よく頑張って来たね」
「もういいよ」
「ゆっくりと、休んで・・・」
「お疲れ様・・・」
そう言ってやりたかったと、夫が、ぽつりとつぶやいた。
彼が吹くサックスは、とてもロマンティックで、素敵な音色だった。
出来ることならもう一度、その音を聞いてみたい。