では、昨日の続き。
今回、葬送習俗の面白い話は聞けなかったが、
焼香案内のタイミングを知らせるランプやブザーの存在を知った。
導師の経机の上にスイッチが置いてあり、
焼香のタイミングになると導師がそのボタンを押す。
すると司会席のランプが点灯したり、あるいはブザーが鳴ったりと。
クイズ番組みたいで唖然としたが・・・結構笑える話だった。
講座の中では、焼香案内や導師の入退場と密接な関係にあるお経や偈文を学ぶ。
どうかしっかり勉強して、クイズ番組の回答者のようなボタンは下げましょう。
…首を傾げたくなるような僧侶の話。
私は当事者ではないので断定は避けるべきかもしれないが、
複数の人から同様の話があったので、多少ディテールは違っても事実だろう。
浄土真宗系の○○派の僧侶らしいが(ちょっとぼかします)、
お別れの際、柩の中にお花(別れ花)を入れさせない…というのだ。
花は生きているものだから、殺生に当たるというのが理由らしい。
こんな偏った考えを持つ坊主がまだいるのかと嘆かわしい。
一般に「不殺生戒」は仏教の大前提。
これは受戒をしない真宗系でも当然のことである。
しかし現実には、僧侶も魚を食うし野菜だって食うだろう。
時にはステーキや焼肉を食べている僧侶も大勢存在するのは周知の事実。
命有る物をいただくから、我々は生きながらえることができるのだ。
だからこそ食する前に「いただきます」と合掌し、
食後に「ご馳走様でした」と手を合わせる。
「命をいただきます」「命をご馳走様でした」と言っているわけだ。
お別れで、遺族が最後の対面をしている時に、
「生きている花を入れるのは殺生だから」と屁理屈をつけるらしいが、
はっきり言ってこの僧侶は馬鹿も馬鹿で大馬鹿者である。
自分は殺生をしていないとでもいうのだろうか。
霞を食べて生きているのか?
自分の子供にも霞を食べさせているとでも?
本山からの通達にそんなものはない。
僧侶自身の偏ったこだわりかもしれないが、
人の気持ちを理解できないような人間が僧侶になっていることがやりきれない。
スタッフが抗議をすると、「私の居ない場所で花をいれなさい」。
これもおかしい?(理解に苦しむ)
そしてヤクザの葬式の時は、何も言わなかったらしいですぞ。
所詮この程度の人間なのだろう。
どこに信念が存在するのか、誠にもって残念。
私の遠い昔の体験からも…
宗教上の理由から、どんなに早くても焼香案内までは、
20分以上掛かると譲らなかった導師が、
やくざの親分から「埋めるぞ、こらっ!」と一喝されたら、あっさり変更した。
それも極端すぎて、開式したらすぐに焼香だというではないか。
えっ!じゃあ、今までの屁理屈は何だったのよ。
埋めてもらって浄土へ行くのがそんなに嫌だったのか?
娑婆世界にしがみ付きたいのだろうね。
スタッフ一同から失笑を買ったことは言うまでもない。
昔、我が家の近所の寺院にも…
亡くなったら浄土へ行くのだから「おめでたい」と葬式の場で連発し、
遺族を励ましているつもりなのか、宗教の理屈を説いているつもりなのか。
少しばかり軽くて、ヘラヘラしている住職がいた。
何の因果か、大学生の長男が事故死。
その住職が喪主となって盛大なお葬式が寺院で執り行われたが、
見るも無残なほどに、立ち上がれないほどに…大泣きしていた。
長男が浄土へ帰って、おめでたくて泣いているとはとても思えない。
かつて、ある宗派の宗務総長を務めた人物が、
震災で身内を亡くし、その後に発したコメント。
「浄土に行けるのはありがたいはずなのだが、悲しくて涙が止まらなかった」
命の儚さを、我が身を持って体験し、涙がとめどなく溢れたというのだ。
トップのこの告白は様々な波紋を呼んだが、私は正直な人で良いと思った。
他人の悲しみを理解できず、悲しみに寄り添うことが出来ない人は、
頭でっかちで理屈にばかり頼るのだろうか。
葬儀で一番大切なのは、宗教儀礼や宗教理論ではないはず。
遺族の悲しみを大切にすること。
葬祭スタッフは、馬鹿な僧侶に負けないで遺族を守ってもらいたい。