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2007年03月07日

主観と客観 (井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

葬祭セレモニーにおけるプロデュース・演出は、故人や遺族の想いを、
どのような形で実現するかということで試行錯誤が繰り返されている。
よってプロデュース・演出方法は、ITのお陰もあり多岐に渡るが、
今日は、主観・客観という視点で捉えてみたい。
他所様の商品はとやかく言いにくいので、FUNETについて。

その前に、主観・客観とは。
主観とは、自分ひとりだけの考えであり、その人が判断すること、感じること。
客観とは、誰の目にも映ることであり、皆の現実の考え方。

葬儀におけるナレーションは主観である。
ナレーションを語る司会者の主観が色濃く反映している。
実際は取材して聞いた話も混じっているが、全体として主観の表現だろう。
また同じ文言を言うにしても、司会をする人が違えば、
それを聞く人の感じ方が違ってくるものだ。
よって、主観の表現ということになる。
主観の表現をするには、何より「間」が大切。
そして「音の高低」と「速度の変化」。
これらを使ってリアリティを導き出さなければならない。
これは相当難しい。

さて主観の表現の場合、俗に言う「やり過ぎる」と反感を買うケースがある。
何故だろうか? 理由は、
1.技術が下手。(読みが下手くそ)
「間」と「音の高低」と「速度の変化」がバラバラで、
現実味に乏しく、聞いていて不快感を催す。
2.内容が著しく異なる。(例えば、仰々しく讃え過ぎるなど)
事あるごとに美辞麗句で飾り立て、身内が聞いていても気恥ずかしく、
死ねば誰でも素晴らしい人生だったのか…と不満に思い、
そんなことなら最初からナレーションなんかやらないで欲しいと。
とまあ、こんなところだろう。

主観の表現は、その「内容」とそれを支える「技術」である。
このどちらもが嵌った場合は素晴らしい結果をもたらすが、
そうでなかった場合は、実に恐ろしい結果を招くことにもなる。
「葬儀にナレーションなんかいらない」という人の気持ちはここにある。
自分自身を良く知り、読み癖など、技術的短所や長所を知らないと恐ろしい。
本人には自覚が無いのだから、どうにもこうにもならない。
人前で何かを読むということは、簡単なことではないのだ。

主観による演出の難しさは、ごく少数の人がホームランを打つ、
が多数の人は三振もする…あんまり譬えが好くないか。
しかしホームランを打ちたくて、いやせめてヒットを打ちたくて…であろう。
FUNETでは、そのどちらもカバーしている。
膨大な司会音声で技術をマスターし、ナレーションの提供で内容もある。
程よく詰めていってもらいたい。
現在、葬儀司会に於いてナレーションは外せない。


さて、客観表現とは何だろう?
客観とは、「私」の認識だけではなく「他者」との認識の一致だ。
ここに遺影写真があるとしよう。
一枚の古い写真であり、懐かしい写真だ。
この写真を見ている参列者は、故人との関係性の違いによって、
写真から思い起こすことが違っているかもしれない。
ある人は、過去の思い出となった出来事を呼び起こし、
ある人は、故人の若い時はこんな感じだったのかと少しばかり驚き、
ある人は、初めて眼にする故人の姿に、息子さんはお父さんソックリだ…。
しかし現実に見ている遺影写真は、紛れもなく同じ1枚である。
同じ1枚の写真が、参列している方に何を見せているかは分からないのだ。

客観を見せた場合、人は自分の中で主観に転化してしまう。
人間とはそういうものだ。
例えば人混みの中にいて、ある人の声だけを聞き取ろうと必死になることがあるけど、
実際に意識してそれが出来るのだ。
全員の声が、ある人にはバラバラの喧騒でも、
目的の声があった場合には、聞き分けることが出来るのだ。
聞きたい声だけを中心に聞くということが、実際に起きている。

遺影写真の見方も同じで、その写真から見たいものを人は見るのだ。
それぞれが導きたい映像へ、勝手気ままに繋がっていくのだろう。
優しさ、逞しさ、包容力、心の温かさ、健気さ、誠実さ…
客観で置かれた遺影写真に、想像力を働かせ、そして感受性の力で主観に変える。

客観表現とは、誰もに同じものを提供しつつ、
それを自分自身で主観に転化させることが出来やすいもの…がベストだ。
思い出の品なんか最高だし、そこに意外な喜びや驚きが隠されていたり、
故人のアルバムも好い按配にチョイスできれば…と思ったりもする。

FUNETでの客観表現コンテンツは、追悼文、ヒストリーパネルがある。
ただ追悼文は、客観で書かれた文章に、主観の「遺族の言葉」が入るのだ。
そういう意味で、訴求性が大きく、今流行の「家族葬」向きであろう。
家族葬とは、遺族の不安や想いや望みをどれだけ満たしてくれるかである。
型通りの流れ作業ではなく、人を感動させる葬儀のあり方だと思う。
決して安価な葬儀ではあるまい。

追悼文に嵌る企業は、
ナレーション一辺倒だったものがバリエーションも増えるので、
と思ってチャレンジしたら意外に受けて…と現実に増えてきている。
「遺族の想いを大切にする」というのが、どれほど大きいことか。
是非一度トライしてもらいたい。

そしてヒストリーパネルは、写真が11枚。
遺影写真が11枚並ぶと思ってくれて良い。
祭壇には1枚しか乗らないかもしれないが、11枚もあれば、
まして飾る場所が思い出コーナーならば、皆が自由に故人を偲べるはずである。
一人の写真もあれば、家族の写真もあり、バラエティに富んでいる。
祭壇の前の雰囲気とは違った形で、故人を偲べるのだ。


主観と客観は、上手に使い分けることが可能である。
それぞれに特色があり、効果的に活用することをお勧めしたい。
詳細は、セミナーなどで。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2007年03月07日 09:24

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