人間は好奇心の塊、だからこそ進化してきた。
そして、分からないことは、説明が尽くようになると信じるようになる。
その繰り返しで、それぞれの時代を累々と生きてきた。(逞しい)
だが根幹の所、人間は何のために、そして何処へ行くのか…それが分からない。
日々の生活の中で、周りのことは理解できてくるのだが、どうしても根幹が…。
そして、我々を取り巻く世界を、上手に説明してくれるのが…宗教だった。
世界に説明を求めようとすると、それはおそらく科学の芽生えだったろう。
そんな中で、世界各地域の宗教の起こりは、その地域の人々が円滑に生活するため、
脳が開発した「無形の道具」と見ることもできる。
人々の、ひとつの知恵の結晶なのかもしれない。
つまり、全ての宗教を生み出したのは、人間の脳なのだ。
現在、自然理解が深まり、科学が生まれ、そして進歩し、
多くの人々が、宗教的世界観と科学的世界観という、
宗教と科学のダブルスタンダードを持っている。
無だった人類が、やがて言葉を覚え道具を使い、周りの現象を少しずつ理解し、
そして世界に説明を求めるために、それぞれの「宗教」が生まれた。
一方、科学はある時期から急速に進歩し、色々な不思議が解明されて、
科学そのものが、世界の説明をしだした感がある。
(霊の存在を否定する科学者は多い)
ダブルスタンダードの中、宗教と宗教・宗教と科学…の間では激しい衝突が起きている。
これは、それぞれの「脳」と「脳」のぶつかり合いなのだろうか。
どちらも、人間が創り出したり、解明したり…したものなのに、
脳は様々に反応…時として過激に反応…して止まない。
脳の不思議…一方では脳の驚異に感謝し、他方では残念の極みであろう。
2007年12月「開放知としての科学と宗教」と題したシンポジウムが開かれた。
このシンポジウムで目を引いたのが、社会生活における宗教の必要性…。
古代、未開な文化しかもたない日本に、高度な中国の律令制を移植するために、
つまり人々を納得させるために、神話などの宗教的なものが不可欠だったらしい。
天皇が神を祭ることが、人々が税を納める根拠になっていた。
奈良時代に、天皇制を支える神話が崩れると、その代わりとしての仏教導入。
社会生活においての宗教の果たす役割は大きかった…ということだ。
脳は、宗教を創り出したが、その宗教を信じることが出来るという不思議。
例えば、神や仏を信じることが出来る能力を持っている。
(自分で創り出しときながらね)
心理学の研究テーマ「偽りの記憶」。
誤情報に晒され続けると、その記憶が侵入し、記憶が変容される。
実際にはなかった体験を、思い出したりするのだ。
今となっては、自分で創り出したものに…翻弄されていないか?
脳…NO…オーッ・ノー!…困ったよ!!