築地本願寺で開催される中央仏教学院の専修過程に通っていた頃、
事ある毎に「歎異抄を持ち歩いてみなさい」と、先生から教わった。
続いて「すぐに眠くなるから…」とも付け加えられた。(笑)
何度でも読み返していかなければ、理解しづらいとも。
そしてそれは、決して間違いではなかった。
私は地方へ出張する際、結構、眠り薬として持ち歩いている。
残念ながら、難解なとこも、眠り薬も、効果覿面です、はい!(スンマセン)
禁断の書とも呼ばれる歎異抄は、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」に代表されているが、
悪人こそ逆説的に救済されるという悪人正機説…これが明治以降インテリには受けた。
ただ親鸞の真意は、大分ちがっているようだ。(きちんと伝わってないのです)
善人や悪人というのは、社会の現実的な善悪の倫理観では計り知れないものである。
極論すると、人殺しは悪だが、戦争でたくさん働けば英雄になったりもする。
また以前にも話したけど、戸籍の中の年齢の表記方法に、
数え年を採用していた時代から、満年齢に変えたりはしないのが宗教的と言います。
社会のモノサシは、近年だけ見ても、戦後大きく変わりました。
社会秩序のためのモノサシは絶えず変化しているけど、変化しないのが宗教的な考え方。
つまり軸が、絶対的にブレないということでしょう。
この話は突き詰めると面白いけど、面倒くさいのでカット。
私は不勉強者で、眠り薬を必要とするときまで滅多に歎異抄を読まないが、
その読まない歎異抄から今日のテーマ…親鸞が示してくれた浄土観の面白さ!
それは「天国」「地獄」に対比されるような単純な話ではないのです。
いかにも浄土真宗らしいというか、屁理屈好きといおうか(怒られる)、
判断が単純じゃないところに人間味が感じられる。
浄土真宗の浄土は、阿弥陀如来が担当している西方極楽浄土なんだけど、
(他宗派の浄土は、原則、担当者がそれぞれ違います)
その浄土に往生するのに二通りあると、歎異抄の17条で述べているのです。
えっ二通りって??どういうこと???
一つは「真実報土(しんじつほうど)」、もう一つは「方便化土(ほうべんけど)」。
普通の考えだと、単純に浄土に往生することを願っているだけなんだけど、
浄土往生にも二通りあるのかよ…となってしまいますよね。
そうなんです、方便化土(ほうべんけど)とは、地獄ではありません。
「方便の浄土に生まれる者は、地獄に堕ちる者」という世間の理解に対して、
親鸞聖人は激烈にこう言いました。(訳してます)
「かたほとりの土といわれる方便の浄土に生まれる人は、
結局地獄に墜ちることになるということについて。
このことはどこぞにその証拠となる文言があるのでしょうか。
おそらくこれは、学者ぶった人々の中から言いだされたことと聞きますが、
あきれた話です。そのような人は、経典や祖師方の書かれたものを、
どのように学んでいるのでしょうか」
くーっ、親鸞言うねえ…強烈ですなあ。
実は私、この章のときだけは眠くならなかったんですね。
で方便化土(ほうべんけど)というのを後日調べてみました。
「かたほとりの土」って何ぞやと。
すると真実の浄土に対して、仮に救われる浄土ということらしい。
浄土の中の、辺鄙な場所というわけだ。
別な言い方をすれば、拘置所みたいなものだとか。
犯人と決定しない者を、一時的に拘束して置く場所のこととも。
信心が不十分な人でも、阿弥陀如来は何とかして救ってやりたいので、
浄土にも色々とご用意されたらしい。
それでこそ、一人残らず(摂取不捨)救うという意思の現われということか。
皆さん、浄土真宗に地獄はありませんぞ…ってか。