代わりにと言う訳ではないですが、
会社に置いてあった同著者(青木新門 氏)の書いた別の書籍をザッと読んでみました。
青木作品は初めてですが、これが面白い。何より文章が上手い。
最初の2,3ページを読んでみると、
これは夜が長くなるなという予感がしました(秋ですしね)。
青木氏は葬儀社に勤めつつ、
納棺を専門にされていった方だという認識を持っています。
私が読んだ本では、葬儀社の門を叩いてからの経緯が細かく書かれていましたので、
富山の葬祭の歴史の一端に触れるのにも役立ちました。
まず思うのは、青木氏が葬儀業に参加した頃は、
葬儀は家族や近隣の人を中心に行うものだったということ。
最初は棺を提供して諸所のお手伝いする程度だったのもが、
徐々に葬儀社へのサービスの比重が高まり、
業務(納棺、司会、接遇 etc.)が細分化され、
専門業者化して…という流れになり現在に至ると想像できます。
筆者は、納棺の道を進んでいくことになります。
筆者は納棺夫として葬儀を見つめていく中で、周辺に「違和感」を感じていきます。
それは、葬儀社の人やお寺さんや火葬場にいる方が、
どこか自分の仕事の本質を見つめないで、家を継いだからや儲かるからなどの理由で、
仕事をしているのではないか…ということです。
(いつの時代も、気持ち面のバラツキは変わらないと思いますが)
当該の「本質を見つめないで…」という箇所を読んでいて、
今の葬儀は、サービス業化が激しくなったが故に、
業務や施行を一所懸命やっているのに、
逆に、本質を失いがちになっているかもしれないと思いました。
例えば、葬儀を円滑に進めるすぎるがゆえに、
本来遺族が請け負うべき事まで葬儀社がやってしまっているのではないか。
遺族挨拶に、葬儀社は遺族に雛型を渡す必要があるのか。
「ご会葬いただき、ありがとうございました」だけでも、
自分の言葉だから良いのに、それを葬儀社の言葉に変えていないか。
また、火葬場の時間に間に合わないからと言って、
焼香の回数を「○○宗だから1回でお願いします」などと言っていないか。
葬儀社の都合を、別の言葉にすり替えていないか…。
担当者は、色々な制約の中で一所懸命なのでしょうが、
何かがズレた施行は、葬儀の本質を知らぬ間に歪めてしまう結果になると思います。
葬祭関連の本を読むと、つい思考が走ってしまいますね。
また、青木氏の著作を読んでいると、
以前は自然に出来ていた遺族参加型の葬儀の構造を、
改めて見直す必要があるのかなとも思います。
遺族の負担を(無理やりにでも)取って「サービス」としてきた流れから、
遺族にも協力してもらって、より故人らしい葬儀をプロデュースしていくのが、
今後のより良い在り方かなとも思います。