築地本願寺と首都圏の人々から親しまれているこの寺は、正式名称がある。
「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」…長くない?
縁起は、1617年西本願寺の別院として第12代宗主(ご門主)准如上人によって建立。
当時は、浅草橋近くの横山町にあったので(現在と場所が違う)「江戸浅草御坊」と。
ところが僅か40年後の1657年(明暦3年)、有名な明暦の大火(振袖火事)で消失、
その後幕府から同土地での再建が許されず(江戸区画整理のため)、
その替地として下付されたのが現在の場所。
ところがその頃は、八丁掘の海上です。(幕府も無茶するわー)
佃煮で有名な佃島の門徒が中心となって、本堂再建のため海の埋め立てが始まります。
実は佃島の起源伝承は面白く、関西は摂津の漁師達が初期移住集団と言われ、
(この時、佃煮を関東に持ってきたらしい)
彼らは本願寺の信徒でした…その人々の奔走によって幕府の許可を得て、
佃島住民が埋め立て工事に貢献したと言われております。
「築地」という地名も、土地を築くと書きますからね。(なるへそ!)
1679年、遂に再建…「築地御坊」と呼ばれていたそうです。
しかし、本願寺の苦難は更に続きます。
関東大震災の二次災害で消失するのです。
1934年、遂に完成したのが現在の姿。
外観は古代インド仏教様式で、内観は桃山様式。
この外観はちょっと珍しいのですが、仏教もキリスト教等と同じように、
これからは「世界へ羽ばたく」というイメージが設計者にはあったとか。
その設計は、東京大学工学部教授の伊藤忠太博士である。
それでは、内部に目を移そう。
暫くでも通った者として思うのは、意外と柱の数が多い。
本堂で葬儀を行うときには、正直邪魔になった。
死角がたくさん出来るので、椅子の数を全部有効には使えないのだ。
何故なのかという疑問があったが、それに対しても回答があった。
どうしても耐震性・耐久性・防災性を重視してしまうということらしい。
更には、天井のシャンゼリアのような灯りも、未だに水銀灯で出来ていて、
スィッチを入れてから明るくなるまで10分…これは雰囲気があり、気に入っていた。
それと堂内の至る所にある動物などの生き物の彫刻、何ともムードがある。
本堂後方では仏教音楽を奏でるために、大小2000本(3メートルから1センチまで)
のパイプを使ったパイプオルガンの設置。
この荘厳な音色は、一度体験してください。
これは1970年(昭和45年)の11月、財団法人仏教伝道協会より寄進されている。
(毎月の最終金曜日12:20 ~12:50ランチタイムコンサート実施中)
内陣は、正面に阿弥陀如来像。
直ぐ横、右側には宗祖 親鸞聖人の御影(正面は珍しい)
更にその右横には、聖徳太子像。
正面の阿弥陀如来像から左に行きましょう。
直ぐ左側は、第23代宗主(しゅうしゅ)勝如上人御影。
更にその左側には、七高僧御影。
これは真宗の方ならご存知だろうが、(七高僧のご事跡は正信偈で)
親鸞お聖人が選ばれた方たちで、インド代表2名(龍樹菩薩・天親菩薩)、
中国代表3名(曇鸞大師・道綽禅師・善導大師)、
日本代表2名(源信和尚・源空<法然>聖人)の7名の御影。
ふっー、疲れたね。
明日に続くけど、明日は(Xジャパンの)ヒデ散華や納骨堂など。
では。
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何年か前に受講された方は、まるで違っていますよ。