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2008年10月02日

十六の会in築地本願寺その1 (井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

築地本願寺での中央仏教学院を卒業後、
久し振りに同窓会といおうか「十六の会」に出席。
十六の会と書いて「とむのかい」と読むらしい。(私も初めて知った)
理由は至極単純で、卒業生の中から16名で作られた会だからだ。

久し振りの築地本願寺。
全員で団体参拝のお勤め後、築地の僧侶の方から簡単なご説明を受けた。
結構知らないことが多く、だって通っている頃は単位を取るのに汲々として余裕なし。
改めてその歴史を知ることとなった。



築地本願寺と首都圏の人々から親しまれているこの寺は、正式名称がある。
「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」…長くない?
縁起は、1617年西本願寺の別院として第12代宗主(ご門主)准如上人によって建立。
当時は、浅草橋近くの横山町にあったので(現在と場所が違う)「江戸浅草御坊」と。
ところが僅か40年後の1657年(明暦3年)、有名な明暦の大火(振袖火事)で消失、
その後幕府から同土地での再建が許されず(江戸区画整理のため)、
その替地として下付されたのが現在の場所。
ところがその頃は、八丁掘の海上です。(幕府も無茶するわー)

佃煮で有名な佃島の門徒が中心となって、本堂再建のため海の埋め立てが始まります。
実は佃島の起源伝承は面白く、関西は摂津の漁師達が初期移住集団と言われ、
(この時、佃煮を関東に持ってきたらしい)
彼らは本願寺の信徒でした…その人々の奔走によって幕府の許可を得て、
佃島住民が埋め立て工事に貢献したと言われております。
「築地」という地名も、土地を築くと書きますからね。(なるへそ!)
1679年、遂に再建…「築地御坊」と呼ばれていたそうです。
しかし、本願寺の苦難は更に続きます。
関東大震災の二次災害で消失するのです。
1934年、遂に完成したのが現在の姿。
外観は古代インド仏教様式で、内観は桃山様式。
この外観はちょっと珍しいのですが、仏教もキリスト教等と同じように、
これからは「世界へ羽ばたく」というイメージが設計者にはあったとか。
その設計は、東京大学工学部教授の伊藤忠太博士である。

それでは、内部に目を移そう。
暫くでも通った者として思うのは、意外と柱の数が多い。
本堂で葬儀を行うときには、正直邪魔になった。
死角がたくさん出来るので、椅子の数を全部有効には使えないのだ。
何故なのかという疑問があったが、それに対しても回答があった。
どうしても耐震性・耐久性・防災性を重視してしまうということらしい。
更には、天井のシャンゼリアのような灯りも、未だに水銀灯で出来ていて、
スィッチを入れてから明るくなるまで10分…これは雰囲気があり、気に入っていた。
それと堂内の至る所にある動物などの生き物の彫刻、何ともムードがある。



本堂後方では仏教音楽を奏でるために、大小2000本(3メートルから1センチまで)
のパイプを使ったパイプオルガンの設置。
この荘厳な音色は、一度体験してください。
これは1970年(昭和45年)の11月、財団法人仏教伝道協会より寄進されている。
(毎月の最終金曜日12:20 ~12:50ランチタイムコンサート実施中)



内陣は、正面に阿弥陀如来像。
直ぐ横、右側には宗祖 親鸞聖人の御影(正面は珍しい)
更にその右横には、聖徳太子像。
正面の阿弥陀如来像から左に行きましょう。
直ぐ左側は、第23代宗主(しゅうしゅ)勝如上人御影。
更にその左側には、七高僧御影。
これは真宗の方ならご存知だろうが、(七高僧のご事跡は正信偈で)
親鸞お聖人が選ばれた方たちで、インド代表2名(龍樹菩薩・天親菩薩)、
中国代表3名(曇鸞大師・道綽禅師・善導大師)、
日本代表2名(源信和尚・源空<法然>聖人)の7名の御影。
ふっー、疲れたね。
明日に続くけど、明日は(Xジャパンの)ヒデ散華や納骨堂など。
では。

<追伸>10月27日「キャリアアップ講座開催」(綜合ユニコム様主催)が開催されます。
どなたでも参加できる講座ですので、是非ご参加ください。
講座の内容も毎年のように少しずつチェンジしていますので、
何年か前に受講された方は、まるで違っていますよ。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2008年10月02日 09:00

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