2002年のNo.2の「葬送の視点」に、
「葬送の原点は、(死者を)送ることにあるのか、(死者と)別れることにあるのか」
という議題が出されています。
この文章の中では、「(当時の葬儀では)死者を送ることも死者と別れることも薄くなり、
葬送の原点を見直さなければならない…」と展開していたように思います。
「葬送の原点は、(死者を)送ることにあるのか、(死者と)別れることにあるのか」
という議題が出されたのは7年も前ですが、
今、改めて考えてみても興味深いテーマだと思います。
言葉のニュアンス的には、
「(死者を)送る」 という言い方には故人が中心にあり、
「(死者と)別れる」 という言い方には遺族や会葬者が中心にあるようにも感じもします。
どちらも重要な視点でしょう。
敢えてどちらかに絞れ…と言われると、
『葬送』という言葉的にも、「(死者を)送ること」の方が原点なのかな…とも思います。
しかし、今日では「お別れ会」や「無宗教葬」が増え、
宗教(仏教)離れが顕著にも思えます。
「(死者を)送る」と言っても、一体どこに送るのでしょうか。
浄土?仏教ならそうでしょう。
しかし、『おじいちゃんはご浄土に行かれたのよ』とは、あまり聞きません。
どちらかというと、「ご浄土」ではなく「天国」ではないでしょうか。(キリスト教!?)
でも、天国って一体どこなの?
子供に説明するには、人差し指を空に指すくらいの説明になるのでしょうか。
浄土の説明を出来る人は、どれくらいいるのでしょうか。
葬送の原点の一つは、「(死者を)送ること」。
しかし、その送り先を見失っているのが現状のように思います。
故人はここにいる。
空を指すのではなく、自分の胸を指す人も多いかもしれません。
手元供養や遺骨ダイヤモンド、カロートペンダント、
小説やドラマの【心の中で生き続ける】という言葉など、
故人を身近に置く、自分の心に置くという感覚は、特別なものでは無いように思います
それは結局、死者を送りきれず、別れきれず、
別離を必要とせず、死者と共に生きてゆく…。
そのような姿勢・態度の表れなのかもしれません。
「(死者を)送ること」 だけでなく、「(死者と)別れること」も、混迷しているように思います。
7年前に書かれた碑文谷創 氏の文章に、話を戻しましょう。
『死者を送ることも死者と別れることも薄くなり…』
というは、今尚、薄い気がします。
「宗教心の薄さ」と、それに反比例するように強まる「故人への依存(執着)」は、
7年前より顕著になっているかもしれません。
それゆえ、『葬送の原点を見直さなければならない』。
改めて、難しいテーマだと思います。