オリンピックについて聞かれた石原都知事の言葉が、
話題になっているようです。
「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ。
国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、
高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない。」
確かに、近年のオリンピック選手は、
「国家のため」ではなく、より小さな集団の「周りの人々」や、
「自分」のために戦っている傾向が強いように思います。
マスコミが、個々の先週の物語性に焦点を当てていることもあります。
観客も、国を挙げて応援しているというより、
個々に応援したい人を応援している傾向にあるようです。
フィギアスケート男子では、ジョニー・ウィアーの演技後に、
日本人女性がバラの冠を贈っていました。
もちろん、誰もが「日本に勝ってメダルを取ってもらいたい」と思っているでしょう。
ただ、「国家のためにメダルを取ってこい」とまでは思わない。
それが、今の選手に対する日本の応援の雰囲気のように感じます。
メダルよりも、全力を出して来て欲しいと。
ま、オリンピックを国家としてどう位置づけるかにも依るのでしょう。
国費を出して選手を送り出しているのですから、
『国家を背負って戦ってこい』という気持ちも、理解できます。
国家を背負って戦う場合、負けた選手が、
「メダルは取れませんでしたけど、全力は出しました。」
なんて言葉は、言えないでしょう。
「メダルは取れませんでした。すみません…。」
という言葉になるでしょうね。(昔は、そんなインタビューが多かったような)
今は、選手に対し、成績は強く求められない一方で、
「品格」は強く求められているように思います。
服の裾を出して移動していたスノーボードの選手には、
試合前にも関わらず強いバッシングがありました。
世論の様子を観ていると、選手の品格や人間性こそが、
「日本の代表」として問われているのかもしれません。
成績が良ければベストでしょうが、
競技を通して滲み出る個々の選手の内面にこそ、
「日本人らしさ」を求めているように思います。
メダルの色で選手を評価するのは万国共通ですが、
日本の目線は、「相撲の横綱」を見る目線に近いのかもしれません。
ちなみに、スキーモーグル銅メダルのシャノン・バークのはしゃぎ振りを見ていると、
アメリカ人は感情を気持ちいい程ストレートに出すなと思います。
金メダルを取った仲間を喜んだり、失敗した選手を慰めたり…。
国民性かもしれません。
日本人選手にはあまり見ないタイプでしたけど、
それはそれで気持ちいい印象でした。