この時に伝わった仏教というのは、国家鎮護の為であって人々を救うのが目的ではない。
簡単に言うと、国を治める貴族の為の仏教である。
自分達にだけ都合の良い仏教だったようだ。
しかも、既に中国で儒教の影響を強く受けていて(道教の影響も)、
先輩を想い、師を想い、自らの親を大切にする「孝」が貴ばれている。
日本人好みの味付けになっていたようである。
この味付けは後に、道徳観や倫理観として都合よく政治に使われる。
だが、庶民にとっては仏教どころではなく、日々生きるのに、食うのに必死の時代。
豊かな生活など将来に亘って有り得ない。
その後の僧侶は、官許なくしてなれず(官度)、
税を免除される代わりに鎮護国家の重要な役割を担っていた。
今も昔も、というより僧侶はその出発点から偉かったのだ。
因みに、日本最初の僧侶は善心尼という女性らしい。
現代の女性を見ていても、新しいものに対する意欲は古今東西変わらぬようで・・・。
男性は都合が良いから、僧侶の世界でも、その後女性は虐げられていく。
日本へ伝わった国家鎮護の仏教が、立場の弱い人々を救うという
庶民レベルに達するまで、残念だが、まだ数百年も待たなければならない。
その辺りのお話はいずれとして、今日は重要な役割を担っていた僧侶が、
実は「官度」だけではなく、やがて登場する「私度」(私度僧)によって、
もしかしたら葬儀社の原型か?と思えるような行動について記したい。
葬儀概論にも登場するが、行基という人物である。
書物によると、百済の子孫であり、帰化人というか2世だったらしい。
一度は官度の道を進んだようだから、優秀だっただけでなく財力もあったのか。
その行基に、何があったかは知る由もないが、いずれにしろ私度に身を転じた。
彼とその仲間は、焼き場(火葬場)の近くに住みーー当時、火葬するだけでも困難な時代
――火葬の手伝いをして僅かな金銭を稼ぎ、同時に供養もしたらしいのだ。
この姿を思い浮かべると、葬儀社の原型のような気がする。
救済を求める衆生の姿が彼を動かしたのか、それはわからない。
しかし、故人供養も、遺された遺族のグリーフも、全てを一心に背負っていただろう。
とても立派である。
現在の葬儀社もお寺も行基に学ぶべきところは多いはず。
一番立場の弱い人達と共に、悲しみ、泣き・・・その実行力には頭が下がる。
力強い行動を伴った救済者である。
<余談>
一般に死者を「ホトケ」と呼ぶのは、聖(ひじり)と呼ばれた、
行基のような半僧半俗の人達が遺体をホトケと呼んだことに始まります。
また有名な逸話として、奈良の大仏の建立資金不足を、彼の勧進で補った功績は重い。
結局、大僧正に任命されたのを・・・受けたというのが、ちと辛いかな。
今年は平城京遷都1300年だ。
色々と物議を醸したキャラクター「せんとくん」ではなく、
奈良の大仏建立に尽力した「ぎょうきくん」というアイデアはなかったのか。