葬儀社側もそれなりの対策をした上で、
民家の2階から見える程度なら妥当な判決のようにも思える。
ただ、一審や大阪高裁では、
「遺体が納められたひつぎの出入りが見えるのは限度を超える」との判断で、
葬儀会社にフェンスの1.2メートルかさ上げと、
20万円の賠償を命じているから、その基準というか線引きは微妙なようだ。
最高裁では、
(1)民家と葬儀場の間に道幅約15メートルの市道がある
(2)出棺などはごく短時間
(3)目隠しフェンスや防音など自治会の要望に配慮している
などの理由をもとに、
「平穏な日常生活を送る利益は侵害されていない」と結論付けた。
葬祭場の建設ピークは過ぎたとはいえ、
地域住民との共存ルールは明確な方が良い。
フェンスの高さなど、基準があった方がわかりやすい。
今回の裁判も、葬儀場と地域住民との関係における、
一つの判例になるだろう。
それにしても、この種の裁判は、
葬儀場が忌避されるべき存在だということを印象付けてくれる。
死への関心が高まっている…とは良く聞く。
テレビでも葬儀の特集を見かけるし、
特に高齢者やその家族が関心を寄せているようだ。
しかし、それは「自分(もしくは身の回り)の死」に限ったことなのだろう。
「他人の死」に対する忌避感は、以前よりも一層強くなっているように思う。
地縁が薄くなったことも影響しているのだろうか。
昔は、コミュニティ全体で葬儀に対して取り組んでいた。
助け合いの名残が残っている地域も多い。
村八分といっても、「火事」と「葬儀」の時だけは村で世話をする。
しかし今は、火事には野次馬が来るし、葬儀では会葬者が来ない。
公共のサービス・環境の充実に伴いコミュニティの必要性は減少し、
同時に葬儀へ本質的に参加する機会は減っている。
葬儀は、できれば関わりたくないことだろう。
そして、本当に関わらずに済むようになると、
関係の薄い人の葬儀や死に対する抵抗感や忌避感は、
ますます強くなっているのではなかろうか。
また、どこからが「他人の死」で、どこからが「自分と関係のある死」かという
一般人の感覚は、葬儀社にとっても重要だろう。
年々、会葬者が減っている。
会葬者の減少は、葬儀の収益にも影響する。
葬儀場と民家の間に建てるフェンスは高いものが求められるようだが、
一般人の葬儀に参加する心理的な垣根の方が、より心配ではある。