こちらの地域的なやり方でしょうが、
ご遺体葬でのお別れ準備からお別れの最中を、
司会者が長々とナレーションをしゃべっていました。
しゃべるというよりは、時間をつないでいるような感じに聞こえました。
前日の通夜後に、取材をして一生懸命に考えた
故人に対するナレーションなのでしょう。
司会者が故人への思いを込めて話していることはよく分かります。
しかし10分近く、長々とナレーションは続きます。
内容は、故人が生きた人生を確認するようなものですし、
遺された遺族との関係性を肯定するようなものであり、
とても意味のあるものです。
しかし果たしてその場面で、その長い話を聞いている人が
何人いるのかと思いながら、遺族親族の様子を見ていました。
結果は、必死で喋っている司会者が気の毒になるくらい、
その場にいる人は「お別れ」することで一生懸命の様子でした。
遺族同士が何か言葉をかわすにも、マイクの音量が邪魔をしています。
私の遺族としての経験からは、
遺族はこのお別れという場面を一瞬たりとも無駄にしないで、
故人の肉体を目に焼き付けようとします。
ご遺体そのものに集中しているのです。故人の人生に思いを馳せているのです。
走馬灯のように湧き上がる、故人との思い出に浸ることで必死です。
悪気はありませんが、司会者のナレーションは右から左に流されているのか、
まったく聞いていない方も多いのではないかと思いました。
もちろんその言葉に耳を傾ける方もいるでしょう。
でも、耳を傾けた瞬間に、ご遺体から意識は遠のきます。
中には「もう少し、静かにして欲しい」と感じているお客様も、
いらっしゃるかもしれません。
父の葬儀がそうでした。
30分かけた父との最期のお別れの中で、この場面における沈黙が、
私たち遺族にとってどれほど大切かを体験しています。
私は静かな時間の中でこそ、父と向き合うことが出来ました。
その場にいる全員が、自分の気持ちに集中して、父と心で向き合っていました。
ひとり一人にとっては、とても意味のある沈黙です。
何かしゃべらないといけないと思っているのは、司会者や葬儀社側であって、
沈黙が怖いのはその人たちなのかもしれません。
司会者の力を発揮する場所は、他の場面にもあると思います。
最期のお別れにはどういう意味があるのか、
そのためにはどのようにサポートすることがお客様を喜ばせるのかについて、
考える必要があると思いました。