久し振りの帰省とは書いたが、ほぼ毎年、セミナーにかこつけて帰ってくる。
特に何が懐かしいということもない歳になってしまったが、
それでも仏壇とお寺には伺い、父親や兄弟の事を思い出す。
自分が小さかった頃、その思い出はこの土地に来て鮮明に浮かんでくるのだ。
風土が持つ空気感、土地が醸し出す不思議な匂い、
オーバーにいえば流れる風の揺れ具合、そこに住む人々の変わらぬ特性・・・
具体的に何がどう違うのかを表現するのは難しいけれど、
幼い自分にタイムスリップした気分になるから・・・不思議である。
浄土真宗本願寺派金憧山恩光寺。
菩提寺である。
父の菩提寺であるが、私の菩提寺であるとは限らない。
その昔、宗旨改めの血縁寺として黒田藩に届け出る義務があったことが記されている。
納骨堂へ向かう。
お念仏を唱えるが、正信偈までは読誦しない。
こんな狭い場所で、大声でやっていると何事かと思われるだろう。
この地域では、北陸地方のように家庭で毎朝正信偈を唱えるような習慣が無い。
信心深くない、といえば決してそういうわけでもないのだが。
この寺の先代のご住職は、私が小学生の頃、月参りに来られていた。
私が一人で相手をして、お茶やお茶受けやお布施をお渡ししていた。
今日は月参りの日だ・・・と思うと学校から寄り道も出来ずに真っすぐ帰宅。
でも、毎月続けてこられると、そのうち何となく親しくなる。
子供一人が相手をしている気安さもあっただろうが、
あの頃のご住職は、どんな気分で、また私の事をどう思っていたのだろうか。
懐かしい。
ジャーン、位牌を使っているのだ。
高田派や興正派ではないのに、位牌を使っているのだ。
父の時も兄の時も・・・代々がそうである。
因みに仏壇にも繰り出し位牌やら過去帳やらも置かれている。
本来、浄土真宗本願寺派は位牌を使わないはずなのだが・・・。
葬祭ディレクター受験対策で十分理解していますが、
僕がそんな事を言っても、聞く耳を持っている人は少ないだろう。
習慣とは恐ろしいものである。
間違っているから、それを修正するのが正しいあり方だとは思うが、
現実の世界では、合理的だけでは済まされない人間の性が蠢いているのだ。
因みに父の位牌である。
(随分以前から、位牌を使っているのです)
この名前は一応覚えていますが、この位牌に父がいるとはどうしても思えない。
法名を戴くのに、何がしかのお金が掛ったとは聞いていますが、
それも腑に落ちません・・・私の兄弟たちは法名を覚えている者がどれだけいるのか。
福岡に一泊して、その翌日熊本へ移動しました。
父や兄たちと暮らした幼い頃の田舎の雰囲気に触れ、気持を新たにします。
少しだけ疲れが取れるかな、と思いましたが、遅くまで親戚同士で飲んでいました。
では。