さて、なぜ今、「死生観」を問うのかを考えた場合、
一つには、個人が抱く死生観が、葬儀の質にも関わってくるからだと考える。
人が死に対して持つ価値の重さは、そのまま葬儀の価値にも比例する。
その仮説に従うとすれば、現在の葬儀価格の低下、直葬の増加は、
少なからず個々の「死生観」の影響を受けているだろう。
死生観が葬儀に影響を与えているならば、それを是正する方向に持っていき、
少しでも質の高い葬儀を施行したいと願うのが葬儀業界の思いだろう。
しかし、改めて考えてみると、
死生観とは個々の生活、もしくは社会の変動によって、
積み上げられ、変化していくもののように思う。
物事を経験した時間の長さに比例して、その言葉の重みが増すように、
生きた時間、人と関わる時間が長いほど、
その人の死生観も成熟していくものだろう。
また、生まれながらにして死生観を持っている人はいないと考えるなら、
(キリストやブッタのような人はわからないけど…)
死生観の課題を考えることは、
社会の問題(もしくは社会の変化)を考えることになるだろう。
話は外れるが、生活における人との関わりに関して考えてみたい。
一般人は、普段、家族とどれ程の頻度で連絡を取り合うのだろうか。
友人は、どうだろうか。
友人の中にも色々と階層があって、大学の友人は連絡する頻度が高いが、
高校の友人は月に1回程度、中学や小学校の友人に至っては皆無に近い…
ということもあるかもしれない。
連絡の手段・方法はどうだろう。
年賀状は送っているのか。暑中見舞いは送っているのか。
紙に書くのは面倒なのでメールで代替している、
そもそも形式的な挨拶は苦手なのでしていない…という人も多いだろう。
全体的に考えると、一般生活で人と関わる回数は減っている。
おそらく厚生労働省や郵政公社を調べれば、データもあるだろう。
また、定性的な数値だけでなく、
関わりの質も低下しているのではないだろうか。
核家族化、分業化、高齢化社会による社会変化で、
今まで家族で助け合ってきた介護も、「サービス業化」している。
介護に限らず、友人や同級生で助け合ってきた事柄も、
インターネット上のコミュニティ・サービスで代替できるようになっている。
そもそも葬儀自体も、会館葬儀に移行して、地域で行ってきた葬儀から、
サービス業としての葬儀へと変化しつつあるのではなかろうか。
そのような「サービス業化」によって、
人との関わりが減る分、他人の冠婚葬祭に行く機会も減っているのだろうし、
死に対する経験値も少なくなるだろう。
人との関わりが減る分、結果として個々の死生観は熟成されず、
葬儀に対する質にも影響を与えているのではなかろうか。
その意味では、今回のSOGIの「死生観」に関するアンケートは、
「一般人」に対してのアンケート結果を見たいところではある。
(業界紙ではあるし、なかなか難しいかな)
葬儀社が消費者を知るという意味でも重要なマーケティングになる。
結果は、葬儀業界で働く者を落胆させるものかもしれないけれども…。
それでも、社会の変化自体は止められないし、
変化する社会の中で、葬儀業界も変化し、
少しでも良い葬儀のために出来ることを考えていく必要があるだろう。