「奥の院」も有名ですが、そこに向かうまでの参道の両脇には、
20万基を超える、あらゆる人々、企業の供養塔が並んでいました。
高野山が宗派を超えた日本随一の供養場所であることが伺えます。
それぞれ、企業の特徴が現れた供養塔になっています。
シャープは、テレビの形をした供養塔ですね。
献体者に対する供養は、上部が五輪塔になっており、
それぞれ梵語が当てられていました。
一番下は、梵語の「ア」で「地」を意味するものです。
一般の人の墓は、この地輪の形状になっているそうです。
ちなみに、高野山の供養塔の墓原は、
一の橋~御廟まで約2kmの広大さを誇っています。
これらの敷地は、高野山の約120ある寺院が分割して管轄しているとのこと。
結構な収入源になっていそうですね。
さて、中の橋を越えると、霊域としての雰囲気が増してきました。
樹齢何百年も経た杉の老木が、何本も高くそびえて、
適度な香りを醸し出しています。
奥に入る程(御廟に近いほど)偉人の供養塔になるのか、
戦国時代の歴代武将や法然の供養塔などが散見されます。
御墓の前に「鳥居」が立っていて、神仏習合の要素もあり不思議な感じです。
良く言えば寛容、悪く言えば何でもありです。
これらの供養塔は、江戸時代、地方の大名や有力者に対し、
幕府が財源を放出させるために建てさせたそうです。
大名行列と同じで、地方に力を持たせない工夫ですね。
冷めた目で見ると、高野山は、
お墓に関する政府の下請けの独立行政法人みたいですが(例えが悪いか)、
昔の宗教は政治と密接な関わりがあったから、力があったのかもしれません。
長い墓原を歩き終えると、
いよいよ御廟、燈籠堂の前にやってきました。
御廟橋の下を流れる玉川。
そこには、流産や水死の精霊のための卒塔婆が建てられています。
また、弘法大師が串で焼かれた魚を放ったら、
生き返ったという伝承がある川でもあります。
背ビレに黒い斑点のあるハヤが泳いでいるとか…。
つづく。