燈籠堂は、約2万基の燈籠で灯りが照らされており、
不思議な雰囲気を醸し出していました。
2万個も灯篭がありながら薄暗い空間なので、効率的ではありません。
天井は明るいのですけど、下まで光が届いていないというか…。
それだけに、日常ではなかなか感じられない「明るさ」なのですけどね。
灯篭には献燈した人の名前が書かれてあり、その名前はよく見えます。
若干、商売っ気を感じますね。
(ちなみに灯篭代は、中/30万円、大/50万円と紙に書いてあったと記憶しています)
燈籠堂の地下には、弘法大師が入定したと言われる廟窟に続く場所があります。
そこでは弘法大師の三鈷と数珠にも触ることもできます。
また、御供所から弘法大師の食べ物が毎日供えられます。
真言宗の教義では、弘法大師は「入滅」したのではなく「入定」したとされています。
従って、今なお弘法大使は生きて奥の院で瞑想に耽っておられる…と、
考えられているようです。もし、弘法大師が生きているとしたら、
現在の仏教の状況をどう考えているのでしょうかね。
学生たちと共に燈籠堂を一通り回りましたが、
不思議な空間を味わうことができました。
昔は燈籠の油を注すだけでも、大変な作業だったでしょうね。
今は電気の灯篭なので、便利な世の中です。
話は変わりますが、燈籠堂の正面に、
「ホウライ」という切り絵が飾られていました。
切り絵の内容は、干支や宝船、「寿」という漢字が描かれています。
ガイドの方は「注連縄の代わり」と言っていましたが、
高野山真言宗の神仏習合の一つかと思います。
なぜ注連縄を使わなかったのかと現地のお坊さんに聞くと、
高野山は高地で稲が育たず、また修行の場であるため商人が来ることもなかった。
稲が手に入らなかったので、注連縄の代わりに、
「ホウライ」が代用されるようになったのではないか…とのことです。
しかし、このホウライは中国の文化が元なのではないかと推測しています。
漢字にすると「蓬莱」か「宝来」ということですが、
「蓬莱」とは中国の神聖な山(仙人が住む)のことです。
また、弘法大師は中国に遣唐使として留学しましたし、
かつて弘法大師を支援した「山の民」と言われる人々も、
渡来系の移民だったようです。
高野山には法然の供養塔もあり、
神仏習合どころか宗派を超えて「何でもあり」という、
懐の深い場所という印象がありますが、
大陸系の文化も上手く入り込んでいるのかもしれません。
そんな感想を持ちつつ、奥の院を後にしました。