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2011年01月07日

お布施について (井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

昨日、ビートたけしさんのTV番組の話をしたけど、
寡黙な彼との縁は、かつて神宮外苑で行っていた草野球での遭遇や、
ご母堂様のご葬儀の司会を担当させていただいたことである。
(その他、多少はあるが・・・書きづらいので)
いまやテレビ番組でも、葬儀にまつわる話はここまできたのか、という思いである。
時代は間違いなく変わっているし、一般の意識もかなり変化しているのは間違いない。
そこで昨日予告した通り、たとえ相容れない仏教同士でも断然の共通項であり、
また葬儀とは切っても切り離すことのできない<お布施>について書こうと思う。

初めに<大乗仏教>とか<小乗仏教>(差別的用語なので使ってはいけない)とか
聞いたことがあると思うが、日本で相容れない仏教同士であっても、
葬儀をやっているお寺は全て大乗仏教である。
この辺りから話を進めてみたいと思う。

そもそも釈迦入滅後、釈迦の教えを再確認し、尚且つ後世へも伝えるため
聖典の編纂会議が行われた(これを仏典結集・けつじゅう、と言う)。
摩訶迦葉が議長で、阿難尊者が経を担当し、優波離が律(戒律)を誦した。

それから凡そ100年後、第2回目の編纂会議が行われる。
この時、伝道の場にいる者たちから時代に即応した改革案が提出されるが退けられる。
ここに仏教教団は保守派と改革派の2つに分裂・・・釈迦入滅後たった100年である。

今の時代に換算して、ということが適切かどうかだが・・・10年程度か。(個人見解)
これが仏教の根本分裂だ・・・保守派を上座部、改革派を大衆部と呼ぶ。
両派は、その後も時代の変遷とともに、細胞分裂の如く更に細かく分裂を繰り返す。

上座部仏教系は、自己の解脱が最優先事項であるのが特色。
大衆部仏教系は、大乗仏教という形に提案されて在家信者が成立の中心となるのが特色。
ただ、厳密には関連性はあるのだけど、大衆部→大乗であるのが正解かどうか未だ不明。だが、自己の解脱よりも大衆の<教化>と<救済>という道へ進んだのは間違いない。

大乗仏教の最大の特色は、<他者の救済>である。
釈迦が生きておられた頃の立場に帰って、衆生を救済しようとする、
当時としては(紀元前1世紀~2世紀頃)大きな仏教改革運動である。
(細かな改革は、それ以降にもあったのだろうが、そろそろドーンと大改革を願う)
そして釈迦の足跡を辿れば、上には菩提・悟りを求め、下には救済・教化した精神が。
そこで彼らは釈迦のように修行するものを菩薩と呼んだ。(菩薩道)
菩薩とは菩提薩埵(ぼだいさった)と言い、釈尊が仏陀になる前の名称。
意味としては「悟りを求める人々」「悟りをそなえた人々」である。

大乗の菩薩道の代表が六波羅蜜である。
釈尊も菩薩だった頃、この六波羅蜜を実践して仏陀になった。
六波羅蜜はパーラミータの音写であり、到彼岸と意訳される。
1、 布施(波羅蜜)・・・さまざまな施(ほどこ)しをさせて頂く修行のこと
2、 持戒(波羅蜜)・・・戒律を堅固に守ること・・・五戒律や十戒律
3、 忍辱(波羅蜜)・・・完全な忍耐・・・迫害困苦や侮辱等を忍受すること
4、 精進(波羅蜜)・・・身心を精励して修行すること。「精」という言葉は「まじりけのない」という意味。
5、 禅定(波羅蜜)・・・完全な精神統一・・・心の動揺・散乱を対冶して、心を集中し安定させ、真理を思惟すること。「禅」とは「静かな心」、「不動の心」という意味。「定」というのは心が落ち着いて動揺しない状態。
6、 智慧(波羅蜜)・・・完全な智慧・・・別名、般若波羅蜜。一切の諸法に通達して、愚痴の心を対冶し、迷いを断ち、真理を悟ること

思想的に最も重要なことは、実は6番目の智慧(般若とも言う)である。
しかし、大乗仏教の特徴だが、1番目に布施が位置づけられている。
小乗仏教の自利(自分の利益、自分の救い)が最大のテーマに対して、
大乗仏教は自らの悟りである自利よりも、
利他(他者へ利益を与えること)を最優先に考えたようだ。

ここから漸く布施の話になってくるのだが、
布施とはサンスクリット語のダーナの訳で、檀・旦那・檀那と音訳され、
あまねく(布ねく)、施すことだ。
施す内容で1.法施(教えを施す) 2.財施(財物を施す) 3.無畏施(安堵の心を起させる)
の3種類があるが、布施とは、他人に何かをあげて喜ばせることではありません。
自分の所有しているものを他者に与えることにより、
そのものに対する執着を取り除くことに目的がある。
ですから、清らかな心で布施を行う必要がある。
見返りを求めたり(戒名の院号をもらうためだったり)、名利の為に行う布施は、
<不清浄施・ふしょうじょうせ>と言って否定されているのだ。
・・・が、このことは、あまりご寺院様は説明してくださいません。(個人見解)

布施は、あくまでも<利他行>である。
自分の利益のためにはやりません。
施す者・施される者・施す物の3つとも清浄(三輪清浄)でなければ、
正常なお布施にはなりません。
葬儀の現場で・・・どうでしょうか?
布施は、「する」という感覚ではなく「させていただく」と考たた方が良いですね。
無理は禁物、無理強いはおかしい。

<追記>
無財の七施という分類方法もあります。
無罪の七施ではなく、ましてや、なくて七癖でもありませーん。
それは、1眼施(げんせ)、2和眼施、3愛語施、4身施(しんせ)、
5心施(しんせ)、6床座施(しょうざせ)、7房舎施(ぼうしゃせ)です。
このどれもが布施なのだが、但し、財施以外のお布施は、葬儀では通用しません。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2011年01月07日 08:00

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