心月院は、兵庫県の三田市内にあります。
参道や庭は、綺麗に掃除されていました。
寺院を紹介するチラシや資料も豊富で、
寺を知ってもらおうという意識を強く感じます。
寺院内で学習塾も行っているそうで、
社会との接点を多く持とうという努力をされているのではないでしょうか。
総門は唐破風をつけた向唐門。
建長寺にも、同様のタイプの唐門があります。
白洲次郎の墓の前に、九鬼家代々の墓地に寄りました。
九鬼家は、戦国時代は水軍の将として名を馳せ、
江戸以降は三田藩主として代々この地を収めてきた名家です。
戦国武将の九鬼嘉隆は有名ですが、墓が一番大きかったのは、
江戸末期に摂津三田藩の最後の藩主となった九鬼隆義の墓。
彼が開基した訳でもないのに、一番大きな墓というのは、不思議なものです。
目的の白洲次郎の墓は独特の形状をしていました。
五輪塔の影ようにも見える、この墓石をデザインしたのは奥様の正子夫人。
墓石は、ダムの建設中に白洲次郎が現場を訪れた際に格好の良い石を見つけ、
『死んだら“俺の墓”と彫るんだ』と言って、持ち帰ったものだそうです。
墓の中でも一際目立っていましたし、洒落た墓でした。
碑面には、「不動明王」の梵字と刻まれているのみで戒名は刻まれていません。
白洲次郎の遺言書に、「葬式無用 戒名不用」と書かれていたそうで、
遺言の通り、葬儀も行われず戒名も授からなかったということです。
また、寺院資料によると、正子夫人が「(次郎に)似合いそうだから」という理由で、
不動明王の梵字を刻んだそうです。
ちなみに隣の正子夫人の墓石には、「十一面観音」の梵字が刻まれています。
(夫人は十一面観音に関心があったようで、書籍も出しています)
白洲次郎は変わり者のようにも見えますが、
自らのプリンシパル(行動原理)に忠実な人だったそうです。
「葬式無用 戒名不用」という遺言から、
当時(1985年)の葬儀には、価値を見い出さなかったのかもしれません。
彼の死から四半世紀経ち、もし白洲次郎が今の時代に亡くなっていたら、
「葬式無用」の文字は無くなっているでしょうか…。
世間から「葬儀は高い」と言われているうちは、まだ不十分なようにも思います。