宮城県は「docomo」を使う人が多いらしく、
地震後「docomo」は使用制限がかけられて使えなくなりました。
そんな中、通じる場所に行けば「au」は使えて、
その中の一人が「au」を貸してくれて、
2日振りに夫と連絡が取れるということもありました。
高速道路が閉鎖の中、皆さんもどのように帰ろうか思案をしている様子でした。
そして、地震の4日目朝にその中の一人の方が青森に帰ることになり、
ご親切に私たちを送ってくれると声をかけてくれました。
その時は、本当にありがたかったです。
前夜、もう一人の方に乗せてもらうお願いをしていましたが、
その方の事情がなかなか許さない様子で、ちょっと心配をしていた矢先でした。
その時、私の帰りたい気持ちは、頂点に達していました。
国道4号線は、ガソリンや生活用品を買いに出た車の大行列で走れず、
逆方向の山越えをして山形に出ることにしました。
山を降りながら、電池がもったいなくて消していた携帯のスイッチを入れると、
丸二日間不通だった圏外表示が消えました。
そして21通ものメールが立て続けに受信されました。
全部、家族や親せき、MCプロ、友人からの安否確認のメールでした。
この時の携帯が通じたという喜びは、一生忘れないでしょう。
その後の刻一刻と変わる情報をMCプロのメンバーがしっかりとキャッチして、
サポートしてくれたことは、本当にありがたかったです。
鶴岡に向かうつもりだった私たちに、
「山形から新潟方面に引き上げる人の数が尋常でなく、鶴岡駅周辺には
人があふれていて近づかない方がいい」という情報をくれました。
遠くても秋田を目指した方がいいと提案されました。
東京方面に引き上げる人で、航空チケットも市内のホテルも争奪戦のようです。
秋田の知り合いの葬儀社さんにホテルの手配をお願いしました。
大変お世話になりました。
宮城から秋田まで200キロ近くを青森のクロス屋さんが、送ってくれました。
山形に入って、ガソリンも底をつきそうなのですが、
スタンドがなかなかやっていなくて、やっと開いていた村山にある
ガソリンスタンドの列の124台目に並びました。
そこから見える雪に覆われた山々はとてもきれいで、
私の疲れた心を癒してくれました。
その夜、ホテルで久し振りに見るテレビでは、
震災の甚大な被害が次から次へと放映されていました。
静かで平和なホテルの部屋でそれを見ても、
まるで映画でも見ているようなおかしな気分でした。
私もあの中にいたのだということが、よく理解出来ないのと、
東京に帰るまではまだ安心できないという気持ちが大きかったのだと思います。
翌日秋田空港から、震災後5日目に無事に帰京いたしました。
帰るためにご尽力くださった葬儀社のI氏、Sさん、Mさん、
秋田まで送ってくださったクロス屋のSさん、青森のクロス屋の皆様、
そして道中を共に闘ったS氏、Tホテル、D温泉の皆さん・・・。
私は一人では無いということを実感した日々でした。