話はそれますが、「他力本願」には2つの意味があります。
(1)阿弥陀仏の本願。衆生がそれに頼って成仏を願うこと。
(2)転じて、もっぱら他人の力をあてにすること
この通り、広辞苑にも書かれています。
先述の「他力本願」は、もちろん(2)の意味で使っています。
しかし、(2)の意味で発言したとしても、
仏教関係者は抗議するのが定説のようです。
1968年に倉石農相が「日本国憲法は他力本願」と発言し国会審議が停止。
浄土真宗各派からの抗議もあり、2月23日には農相を辞任しました。
また、2002年にデジタルカメラのオリンパス株式会社が、
全国紙に「他力本願から抜け出そう」というコピーで広告を展開。
こちらも真宗教団連合から抗議を受け、謝罪することになりました。
仏教にとって「他力本願」もしくは「他力」は重要な言葉であり、、
(2)の悪いイメージの意味で使われるのは気分が良くないでしょう。
一方で、誤用が定着するということは、
世間の信仰心の薄れの写し鏡かもしれません。
浄土真宗本願寺派の葬儀では、
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
と高僧和讃が読まれることがあります。
「本願のはたらきにあったならば、往生できる」と。
しかし、どれだけの遺族や会葬者が、
その言葉に願いを掛けているのでしょうか。
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多くは間違いなくベストアンサーになるでしょうな。