我が母校は(いわゆるミッション系と呼ばれる)キリスト教学校で、
キリスト教に関する授業もあったことを思い出します。
私が通っていた頃は、今の葬祭業界と同じで宗教的関心が生徒から乖離しており、
生徒としては宗教の授業は楽な授業という認識しかありませんでした(先生スマン)。
今も若い人に宗教の授業は、なかなか難しいのではないかな・・・。
さて、「校長先生のお話」というリンクがありましたので、見てみました。
朝礼で5分程度の訓話を聞いていたのを懐かしく思います。
校長の話には、折に触れてキリスト教の要素が含まれるのですが、
「このたびの東日本大震災で亡くなられた方々が
主のみ前で永遠の安息を得ることができますように・・・」
と書かれているのを読みまして、
キリスト教の死に対する考えが反映されているように思いました。
「死者が主(キリスト)のみ前で永遠の安息を得ることができる」
そういえば、学生の頃にも同じようなことを言われて、
「なぜ家族の前ではないんだ・・・」と反発していたのを思い出します。
その頃は新興宗教の犯罪が多発していた頃で、
絶対的な存在など「胡散臭い道具」のようにしか感じてませんでしたから、
目に見えるもの以外信じてはならないような気がしていました。
今なら、以前よりずっとこの考え方に共感できます。
「死者が主のみ前で永遠の安息を得ることができる」ということは、
人がキリストの前では皆平等であるということを、まさに示しているでしょう。
キリスト教の葬儀ではこの考えが基になっているから、
供花に名札を付けないし、過剰な演出はしない。
顕彰するような行為は避ける、勲章や遺品の展示も控えるのが一般的なようです。
何より「永遠の安息を得ることができる」という点が良いですな。
仏教では、宗派による考えの違いを承知で荒っぽく書くと、
浄土に行くのに修行(や追善)しなければならないですからね。
キリスト教とは逆に、死んでも気が抜けないのが日本人らしいとも思います。
院号や位号など、階級的な要素もありますしなぁ・・・。
仏教は、死しても社会あり。
その厳しさが有るから、日本人の厳格さが保てているのかもしれません。
最後、話がそれましたが、
キリスト教の死に対する考えも悪くないねという話でした。