冬の夜ですから、静かな夜に地響きが鮮明に聞こえたのを憶えています。
その後、凄まじい勢いで揺れ、屋根が左右によじれ、
天井が落ちて死ぬかも知れないと直感的に思いました。
幸い、家の破損はほとんど無かったのですが、
地震の強さ、怖ろしさを実感した日でした。
先週、阪神大震災から17年目の1月17日を迎えました。
17年も経つと、当時の記憶は薄れてきます。
しかし、特別な日であることには間違いありません。
日本では「防災とボランティアの日」に指定されています。
テレビやラジオは、必然的に追悼・防災色の強い番組が多くなります。
日本全体が、阪神大震災を思い返す、一つの「記念日」です。
(ちなみに、関東大震災の9月1日は「防災の日」です)
このような日を英語では「メモリアルデー」というそうです。
個人ではなく、集団として、
人々が同じ想いや願いを捧げる日という意味で、価値があるのでしょう。
同じような役割を果たすものに慰霊碑や記念碑がありますし、
また、集団としての母体は小さいですが、お墓もそうでしょう。
近年、墓離れが進んでいます。
一方で、手元供養という個人個人の供養の形が広がっています。
核家族化や少子化など、旧来の墓の管理を困難にしている社会情勢が、
大きく影響しているのでしょう。
現在の流れは、必然的のようにも感じます。
しかし、墓の役割には、個人個人が追悼を捧げる場だけではなく、
家族や親戚といった一つの集団が故人に対して追悼を捧げる場という役割があります。
手元供養も良いのでしょうが、家族や親戚が一同に集まり、
供養・追悼する場を失うことは、良くない印象を受けます。
(手元供養を否定している訳ではありません)
地震や自然災害に対しては人々が同じ想いや願いを捧げる場や時間があるのに、
最も身近な「つながり」である先祖の身内のつながりにおいて、
家族や親戚が同じ想いや願いを捧げる場や時間が減りつつあるのは、
何やら変な感じを受け、墓の在り方を再考する時期なのではないかと考えさせられます。