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2015年04月06日

寺とあの世 (井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

「あの世」とは、「この世」に対しての言葉で、
亡くなられた方が赴く場所、霊界、そんなイメージであろう。
ただ私が思うことなのだが、生きている人にとって「あの世」は存在するが、
亡くなられた人にとって「あの世」があるかどうか確かめようがない。
多分、無いだろう。

仏教では「あの世」という、漠然とした云い方は相応しくない。
それぞれの宗派で担当する仏様がおられ、仏によって住む場所が違うことになっている。
詳細は省くが浄土の名前は、霊山浄土、密厳浄土、補陀落浄土、西方極楽浄土、
東方浄瑠璃世界、東方妙喜世界、無勝荘厳国…
日本人にとって大人気なのは阿弥陀仏(阿弥陀如来)が担当する、西方極楽浄土だ。
つまり、「あの世」に行くわけではなく極楽(西方極楽浄土)へ行くのだ。
この宗派は、主に浄土宗や浄土真宗系ということになる。

 

しかし、この話は一般の人は知らない。
僧侶が云わない、伝えないからだ。
それどころか自らの宗派に極楽の定義が存在しない僧侶でさえ、
極楽を使った法話を何度も聞いた。
問いただすと、イメージしやすいから使っただけだという。
理解しやすいのは確かだが、大丈夫かな?
宗派が違って、阿弥陀経をお読みなったことがあるのだろうか。
意味がないのではないかな、だって自らが亡くなった後、赴く場所ではないから。

一般の人は、仏教は、方法論は違うが頂上は一つと思っていたりして、
結局は登山のように山道を登るのに色々な方法があると思われている。
そんなに安易なものではない。

そもそも仏教で云う出家とは、産んでくれた親を捨て、生まれた子を捨て、
妻を捨て、ついでに愛人さえ捨てるのだ。
それが「出家」である。

これでは日本人に馴染めない。
いや、それまでの戦国100年の歴史には相応しい。
生き残った者が、勝った者だ。
下剋上の世界。
世話になろうと、上の者だろうと、信ずるのは己の力のみ。
誰であろうと首を切る。

戦国の乱れた世を終わらせた江戸時代、徳川は考えたのだ。
親の恩に報いる、子への惜しみない愛情は人として当然…これらは執着である(仏教では悪)。
しかし、それらを「良し」として教え込み、寺を使った封建体制を整えた。
中国で儒教化された仏教だからこそ取り入れたのだ。

そのような耳が痛い話を、僧侶が十分な説明をしないまま今日を迎えたから、
葬式仏教と蔑まれることがあるし、檀家離れはどうしようもないだろう。

だってお寺は、江戸時代に幕藩体制に組み込まれることで一気に拡大したのだ。
約400年前のことであるが、政策と共に拡大を続けたのである。
それまでのお寺は、極論すると貴族だけのものであった。
それを徳川レジームが、庶民に至るまで目を光らせるべくお寺を使ったのだ。
世界最初の戸籍簿のようなものを拵えたのもお寺のお蔭であるが、政策だった。
江戸時代の初め、3万寺しか存在しなかったのに250年後には95万寺である。
勿論150年前の明治維新、廃藩置県で30万寺にまで減ったが、
その恩恵を手放す時がそろそろ来ている。
(現在、7万6千寺位)

先日、一般向けのセミナーで僧侶が「あの世」という言葉を使っていた。
「え~っ!」と思った。
葬祭業界の司会者でさえ、安易に「あの世」は使わない筈だった。
が、それさえも今、変わり始めている。
恐らく、近い内に「寺の有り様」が変わる。
あ~残念!

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2015年04月06日 08:30

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